ケス(1969)

炭鉱の町ヨークシャーに、父のいない少年ビリーが母と義理の兄と暮らす。抑圧的な学校の先生、暴力的な兄とその仲間達、炭鉱夫になるしかない将来。あるとき、少年はチョウゲンボウ(小型のハヤブサの一種)の巣を見つける。チョウゲンボウのひな「ケス」を育てていく中で、少年は希望や世間との関わりをひそかに見出していく。


30年近く前、チョウゲンボウが祖母の家に巣を作ったことがある。叔父さんが動物好きな人で、図鑑を見せてチョウゲンボウだと教えてくれた。祖母の家に行く度に双眼鏡でチョウゲンボウの姿を観るのが楽しみだった。いつの間にかそのチョウゲンボウは姿を見せなくなった。「どこかへ行ってしまった」と叔父が教えてくれた。
そういった体験があったので、ハヤブサでなく、チョウゲンボウという鳥の存在に親近感を感じた。男の子にとってタカやハヤブサの姿は勇ましく、そして美しい。飛行機やヒーローの姿と重なるものがある。自分にとってもそうだった。だから、ビリーがケスに魅了される気持ちはとてもよく理解できる。

ケンローチが「ケス」を使ってトリュフォーの「大人は判ってくれない」の変奏曲を作ろうとしているのは明らかだ。どうしようもない生まれ、不仲の家族、落ちこぼれの烙印を押された少年、抑圧的な大人達。そこから逃げようとする少年に与えられるものとして、トリュフォーは「映画」を、ケンローチは「チョウゲンボウ」を選んだ。
ビリーはチョウゲンボウの育て方を知るために本を読む。決して大人達が思っているような学習能力が無い少年では無かったのだ(その本は万引きによって手に入れるのだが)。“本気になれる事“に出会ってこなかっただけだったということが分かる。
ビリーは空を飛ぶケスの姿を見て、学校や家族とは別の世界を手に入れる。本人は気づいていないが(ここが大変不幸である)ビリーは、動物を飼い慣らす才能があった。ヨークシャーの町で誰ひとり気づかなかった「隼を飼う」という行為を発見し、行動に移した。ケスを飼うことを通して、町の大人達のビリーに対する認識は少しづつ変化し、ビリーを理解してくれる教師さえ現れる。同級生の目線は蔑みから尊敬に変わり始める。

何かひとつ、それを見つけることで世界との関わりを回復していく、という物語は無数に存在する。この映画もそのひとつであり、その語り口は静かで、じっと見守るような不思議なものである。ビリーの行動や物語の展開は決してご都合主義や予定調和に陥ることなくドキュメンタリー風に進んでいく。ゆえにビリーの姿は頼りなく、危ういもので、もどかしい。

彼は将来について聞かれ「炭鉱夫だけは嫌だ」と言いながら「じゃあ他にやりたいことは?」と聞かれても答えることができない。見ている方からすれば「動物園の飼育員は?」「鳥類学者や生物学者はどうだい?」と言ってあげたくなるのだが、ビリー自身そのことに気づいていない。というか、もっとも不幸なのはビリーがそれらについて“可能性が開かれている”ということを知らないし、信じられないという世界認識に陥っていることだ。イギリスという階級社会の中で、炭鉱の町に生まれ、しかも母子家庭、貧乏、という“選択した覚えのない要因”によって、その可能性は彼の前から消え去ってしまった。ケンローチはそういった問題を描く際に、まったく容赦しない。それは最新作までずっと一貫している。「彼が不幸なのは、彼の所為ではない。社会の所為である」と。

そういった重いテーマをずしんと懐に携えつつ、それでも、この映画はケンローチの他作品より鮮やかで軽やかな印象を残している。それはひとえに、空を舞う隼と少年というモチーフが「大人は判ってくれない」に匹敵するような鮮烈なイメージを描いているからだろう。だからこそ、観賞後の私の想像はネガティブな方には向かない。ビリーはこの後、ケスに代わるような“本気になれる事”に出会い、炭鉱夫にはならなかった、と。ビリーが周囲に馴染めなかったり、反感を買ったりするのは常に「思考停止」に陥らず、自分の世界を大事にしているからだ。そういう者には常に無限の可能性が開かれているものだ。

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