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ボビーフィッシャーを探して(1993)


ネットで探しても、興味を惹かれる解説は出てこなかった。なので自分で書いてみることにした。この映画、わからない人には「大して何も起こらない映画」「ありがちな子供主人公の感動映画」のようである。珠玉の出来なのに。中でも、この作品の監督でもあるスティーヴン・ザイリアンの書いた脚本が本当に素晴らしい。ちなみに私はチェスのルールは一つも知らない。しかし、

何かに夢中になること(初期衝動)
才能について(センス)
教わる、教えることについて(学習)

これらについてとても丁寧に、そして恐ろしく高いレベルで描き切った崇高な作品であった。

・何かに夢中になること
ファーストシーンで人が何かに興味を持つ瞬間、を鮮やかに捉えている。ジョシュは公園で目にも止まらぬ速さでプレイされるチェスの盤上に目を奪われる。雨が降ってもかまわず。野球のボールよりも心を惹かれたのは駒だった。
人が何かに夢中になる時、ルールや、それによって得られる報酬からそこに魅了されるのではない。憧れと、彼らと同じように自分もやってみたい、そういったイノセントな気持ちから夢中になる。それはとても自然なことだ。だからそういう者は優しさを持ち合わせたまま強くなれる。(論理的でもっともらしい理由は不要だ)
ジョシュは最初、チェスのルールを教わらない。憧れ、見て、理解する。この駒はこう動かす。あの人がやっていたように、動かしてみたい。それが結果的にルールに沿っていただけである。憧れの彼らはルールに乗っ取ってプレイしていたわけで、そうなるのは当たり前である。しかし、この順序こそが大事なのだ。

・才能について
ジョシュには才能があった。憧れを淀みなく吸収し、体現する力があった。父との対戦で、一瞬で次々と手を返すところなど面白い。ジョシュの中にはプレイの完成形が見えている。相手は当然こうくるだろう、そしたら当然こう返す。そうでなければこう。頭の中のシミュレーションでは最善の手は2択か3択を選んでいるに過ぎない。対する父はその都度考え込んでしまう。体でなく頭でチェスのルールを覚えているからだ。無数の手から選び取ろうという無茶をしている。体全体で捉える。言語化は不要。才能のなんたるかがここにある。

そして、才能は周囲を振り回す。混乱させ、狂わせる。圧倒的な才能は手助けしたいと人に思わせる。才能に気づいたものは、その力を自分の手柄にしたいと願う。それは自分の人生への贖罪かもしれないし、単に力を欲するからかもしれない。そこに自分の人生を仮託してしまう。自分のできなかったことをジョシュなら達成してくれる。そう思わせるし、そこに周囲はのめり込んでいく。それが正しい事だと信じてやまなくなる。


・教わる、教えることについて
師は技術を教える、技術は心構えに基づいている。必然的に、師は弟子に哲学を教えることになる。ジョシュは師の哲学に学び、駒の使い方や特性を覚える。自分のプレイの癖についても客観的な教示が行われる。吸収力のあるうち、これらは有効的に働き、めきめきと力をつけていく。
次第に師は、その哲学に反するプレイを禁ずる。こういう事はするな。こういう人とはチェスをしてはいけない。それは実のところ、自らへの自戒に他ならない。劇中で、師匠は公園でのスピードチェスはやるな、という。しかし実は彼もスピードチェスを密かにプレイしている。
師が自分の弱さを見つめ、こうなって欲しくない、という願いの元に弟子にルールを課すのだ。しかし、これは必ずしも有効とは限らない。ジョシュの場合、彼のチェスへのモチベーションは公園でのスピードチェスによってもたらされたものであったのだから。


・ならばどうプレイする?
人によって教えは違う。何を是とし非とするか、哲学も違う。ジョシュは次第にチェスへのモチベーションを失ってしまう。勝つためにプレイするチェスは楽しくなかった。勝って皆の興味を得ても、負ければそれを失うかもしれないということが恐怖を呼び起こし、楽しい気分は薄れていく。
父は気づく。ここでチェスをやめさせてはいけない。チェスの楽しさを取り戻すべきだ、と。そしてジョシュを再び公園へ連れて行く。

ジョシュはチェスに初めて憧れた時の自分とシンクロしていく。再びモチベーションを取り戻す。いかなる時も迷った時は最初に戻るのが肝心だ。勝つためのチェスは楽しくないが、楽しいチェスではもっと勝ちたいと思う。この違いは大きい。
ここにも大きなテーマがある。楽しむ者は強い。勝とうとする者には限界がある。強いものは相手さえ思いやれる。「優しさが人生で一番大事だ」と母はジョシュに言った。

ジョシュがチェスを楽しめなくなった理由は分かりやすい。体でなく頭でプレイしようとしたからだ。勝つために上手くプレイしようとしたからだ。上手くやろうとしてはいけない。心が身体が求めるまま、やりたいようにやるべきなのだ。それまでに培った努力と師の教えは必ずそのプレイに反映される。恐れる事はない。そして、対象(この場合チェス)と自分が一体になる感覚を忘れてはいけない。

ラストにかけて、何かのために何かを犠牲にする事(それは自分の何かだったり他人の何かだったりする)への疑念をこの作品は突きつけてくる。しかしその必要性も同時に描く。あらゆるキャラクターが一つのカラーに染まらない。その微妙なバランスを取ろうとしている。芸事をやるものにとって、これ以上の導きはない。素晴らしい作品であった。

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