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~「働くことは楽しいこと」と若い世代に伝えたい③~

Q4:産休から復職してからは、なにか仕事の変化がありましたか?

  29歳で産休に入り、育休が明けた2008年はリーマンショック。戻った会社の雰囲気も一変しコスト削減ムードになっていました。常に新しいクリエイティブを生み出すカルチャーではなく、安定した量・品質・利益を維持する体制にシフトチェンジしていました。当時はダイバーシティの考えも浸透しておらず、復職した時短勤務の女性は、管理系部署へ異動することが通例だったところ、私は広告ディレクターとして同じ部署へ戻りました。時短勤務を選んでいたのでロールモデルが不在ということも兼ね合い、数年間は地獄でしたね。

  限られた勤務時間の中で、どうやってチームやクライアントへ貢献できるかを自ら掴むのにとても時間を要したし、そもそもコスト重視の中で自分のパフォーマンスを発揮するが難しかった。広告づくりにおける業務の効率性は、業務設計や人的な面では有効ですが、コミュニケーションを創出する部分やオリジナリティを生み出すクリエイティブのプロセスでは難しいと感じていました。効率化を追い求めるがゆえに、創造性を軽視するような雰囲気が蔓延していて、本当に苦しかったし「これなら誰が作っても同じ状態」という一人ひとりの価値貢献がわかりづらくなっていく一方のチームから、少し心が離れた瞬間もあります。

 ーーそこから今の「原っぱ大学」の事業にはどう出会っていったんですか?

  2011年の東日本大震災です。当時、私は東京駅八重洲口にあるビルで26階にいました。第一波の揺れが来た段階で、おかしいと気づき、すぐに家族に連絡を取って、息子を預けていた保育園へ迎えに行ってもらいました。即座に会社からの指示が特になかったのもあり、荷物を持って一目散へ帰路に着きました。エレベーターは止まっていたので、26階分の階段を降りましたね。タクシーが動いていた時間帯だったので、60分後には家族とも会うことができました。同じフロアにいた同僚は帰宅できず、また東北支社の社員はとても大変だったことなども聞き、一連の震災での対応面で会社へ不信感が募り、早期退職制度を利用して35歳で退職しました。その後は広告ディレクター職で独立をして、一時期はリクルートと業務契約をしていたこともありましたね。

  2014年に知人からたまたま塚越さんのことを聞きました。当時は、原っぱ大学も彼のことも知らなかったんですけどFacebookで検索したら偶然近くに住んでいて、彼もリクルート出身で共通点が多かったので、ひとまず友達申請をしました。そうしたら「一緒に事業をやりませんか?」とお返事が来ました。いきなりでしたが、その後お会いして経緯を聞いて、面白そうだなと直感的に関わることを決めました。 

ーーコンセプトにも共感したからですか?

  そこまで考えていませんでした。というのもあまり実態がなかったのが正直なところです。当時のプランは、親子関係を調和させていくために「遊びのグッズを通販するビジネスモデル」でした。ビジョンにはすごく賛同しましたが、その方法論にしっくりこなかったんですよね。本当に叶えたい世界観が実現できるとは腹の底から思えなかった。「本当に目指すなら、人間として向き合って共に学んでいく覚悟が必要で、親子の皆さんと長期的な関係性築いてこそ実現できると思う。そういう覚悟がありますか?」と塚越さんと何度も話しましたね。実際にリアルで関わっていくことの責任と覚悟があるからこそ、原っぱ大学は、面白くもあり、手応えもあるものになりましたね。

 ーーでは、原っぱ大学ってどんな場所なんでしょうか?

  コロナ禍が落ち着いてしばらく経過しますが、人との関わりが物理的に難しかった3年間で自分の心のうちに溜め込んでいたものが今になって後遺症みたいに、親子関係や子どもにサインとして現れています。原っぱ大学は親子で遊ぶことをメインにはしていますが、プロジェクトを通して大人が自分自身に向き合える場所や時間をつくったり、子どもの成長に応じて思春期に入った子たちが自分で人生の舵取りをできるようなプロジェクトをやっています。

 原っぱ大学の空間には、評価や優劣は存在しませんし、誰もが対等であり、自らが自分のことを決める空間になっています。この感覚を体験してもらうことで、いざ日常に戻った時にも自分を窮屈にさせる違和感に気づけるようになって、それを無視せず、自ら解決できるように動いていける。そんな循環を目指しています。

会社の方針とのズレを感じ退職。様々な親子と本気で向き合う覚悟で自ら原っぱ大学を創っていった圭子さん。次回はいよいよ最終回、圭子さんが今後やっていきたいことをお話いただきます!

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