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学びの本質

どうも長文ファンです。
(わかる人はわかるやつ😏)

書評というほどのものでもないので、「ひとり読書会」と称して、読了した本について書いていくシリーズをやってみます。ついポチッとしてしまう本には、そのときの自分の興味関心がそのまま反映されますよね。
今回は、話題の『熟達論』(為末大著)を取り上げます。


現代の五輪書

現代の「五輪書」を書きたいという思いからスタートしたこちらの本。「走る哲学者」為末大さんが半生をかけて考え抜き、さまざまなジャンルの達人たちとの対話を重ねて辿り着いた熟達に至る方法論がまとまった一冊です。

『熟達論』の後に出版された、為末さんと今井むつみさんの共著『「ことば、身体、学び 「できるようになる」とはどういうことか 』を先に読んでいたのと、為末さんご本人のインタビュー記事や動画、SNSや音声メディアなどでも内容について見聞きしていたので、積読たまってるし、本はいいかなーと思っていたのですが、今井むつみさんと秋田喜美さんの共著『言語の本質』も読んだら、やっぱり、『熟達論』も制覇したくなって、思わずポチしてしまいました。

しかも、帯文が安田直さん!
安田直さんの『「身体感覚」で論語を読み直す』を読んだときから、「身体感覚」というキーワードがいつも頭の片隅にあったのも、後押ししたのでした。

結果、内容的には想像の範囲のものでしたが、哲学対話が好きな性分なのと、アスリートたちの身体性を伴った経験学習的な体験が言語化された世界がそこにはあり、スポーツがからきしダメな私にとって、まったくの未知の世界を見る感覚で、とても興味深かったです。

熟達の5段階

タイトルの通り、何かを学び「熟達」という究極の状態に至るまでを5つの段階に分けて、各章ごとに、まとめられています。

5つの段階
①「遊」(不規則さを身につける)
②「型」(無意識にできるようになる)
③「観」(部分、関係、構想がわかる)
④「心(しん)」(中心をつかみ自在になる)
⑤「空」(我を忘れる)

『熟達論』より

昔から、「守破離」ということがよく言われますが、「守」が「型」、「観」と「心」の段階を経て「破」と「離」が可能になり、「空」に至るという感じでしょうか。
まあ、言わずもがな、なのですが、この本の肝は、「遊」と「空」です。

最近は、子どもの教育界隈でも「遊び」の大切さが重視されるようになってきていますよね。
とにかく幼児期から児童期に、詰込みのお勉強的早期教育ではなく、内から湧き上がる好奇心のままにしっかり遊び、さまざまな体験をする必要があると。
森のようちえんへの関心が高まったり、映画にもなった、きのくに子どもの村学園や公立校でも長野県の伊那市立伊奈小学校、福島県大熊町の義務教育学校「学び舎ゆめの森」など、子どもの主体性を伸ばすために「遊」を重視した保育施設や幼稚園、学校に通わせたいと望む親御さんも増えているようです。

うちの場合、すでに子どもが2人とも高校生なので、やりなおしはできないのですが、これまで、子育てするにあたり、独学でいろいろ学び、内発的動機付けを意識すること、自己決定の経験を積ませること、フロー状態に入りやすくするための課題設定など自分なりに試行錯誤して子育てしてきたので、とても納得感の高い本でした。

そして、この本を通じての気づきは、親がすべきこと、できることは、「遊」の経験をとにかくたくさん積める環境を整えることだけなのかもしれないということ。そして、何かに夢中になるという意味でのフロー状態は「遊」の段階で経験するものであって、「空」が意味するところの「フロー」とは本質的に違うということ。

「空」にたどり着く近道はなく、「型」を極めて「観」と「心」を経る必要があり、内発的動機がない状態でいくら「型」を繰り返しても、なかなか「観」と「心」の段階にたどり着けず、いつか限界が来る可能性が高い。

「遊」なんてムダと切り捨てられ、ただやみくもに「型」の世界でおしりをたたかれ、疲弊していく子どもたちが量産されている現実がまだまだありながら、一方で、普通の公教育でも、スパルタな進学校でもなく、オルタナティブな教育環境を選択したり、海外脱出を選択したり層もあり、ますます格差が大きくなることを思うと、なんだか複雑なもやもやも残る。。。

まあ、社会問題や課題が多すぎて、さじを投げたくなる心境になることも多いけれど、そんな中でも公教育を変えようと奮闘されている方がたくさんいらっしゃるのは希望で、私自身も、いま、所属しているコミュニティつながりで、グローカルな学校づくりプロジェクトをお手伝いしはじめたので、粛々とやれることからやっていこうとも改めて思ったのでした。

まとめ

と、ここまで、『熟達論』をきっかけに、自分にとって関心のある教育の話にすり替わってしまっていますが、子どもの学びも、大人の学びも、本質的なことは同じ。熟達に至るまでを望むかどうかは、時と場合によりますが、自分の好奇心アンテナにひっかかる内発的動機からスタートして、とにかくまずは、遊んでみる。そして「型」「観」「心」をへて、「空」にいたったあとは、「遊び」に回帰する。簡単なことではないですけどね。
「型」「観」「心」の段階では、ある程度のセルフブラック状態が必要ですが、それを支えるのが、「遊」の経験なのかなと。

さいごに、人間の学びを探究するというテーマだと私的には『ことば、身体、学び』(今井むつみ、為末大著)の方がツボだったことを付け加えておきます。

『熟達論』は、スポーツというと身体に直接結びつく経験からの熟達を論じたという点で、もちろんすばらしいのですが、すべての人が経験するわけではない特殊な世界でもあり、それに対して、ことば(第一言語、手話なども含む)は、すべてに人間が自然に学び、取得するものであるという点で、人間にとっての学び本質をより深く考察することができるのと、今井さんと『熟達論』と書き終えた為末さんとのQ&A形式の対談ベースの本で、為末さんの鋭い問いの力と、それに的確にこたえる今井さんのやり取りがサイコーにおもしろいので、超絶オススメです。

加えて、言語取得に興味がある方には、『言葉の本質』(今井むつみ、秋田喜美著)と3点セットで読むと、なお深まると思います。
まだ1回ずつしか読んでいないので、表面的な理解にとどまっていますが、折を見て、読み返したい3冊です。


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