読書感想文
今年の読書感想文の提出が大変遅くなり、先生に多大なるご心配とご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます。この3連休を利用して急ぎ執筆いたします。それゆえ一部粗雑な議論となることもまたご容赦ください。今年の読書感想文は、小野寺拓也、田野大輔共著『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレットNo.1080,2023年)にしました。
私には中学生の兄がいます。兄は授業だかインターネットだかでナチスドイツのことを知って、むやみやたらと右手を高くあげたり、「ハイル〇〇!」と騒いだり、鉤十字のモチーフのついたネックレスを制服の下に隠すようにつけたりするようになりました。彼はナチスドイツに傾倒しています。私個人としては、恥ずかしいのでやめてほしいと思っています。私の血族者に公共の場でナチス賛美をする奴がいることがクラスメイトにもしも知られたら、明日からいじめられないか心配です。私も、小学校5年生の1学期までの授業では、ナチスドイツについてあまり詳しく教えてもらえなかったのですが、「ナチスドイツ」って何だろう?と私も気になって、この本を今年の課題図書に選ぶことにしました。
私にとって文字を読みながら寝るということは、例えば先生の目の前に自分に向かって怒鳴り散らかしている人がいるのに先生が寝るのと同じくらい難しいことです。私は通常、本などを読む時、「こう言うことが言いたいんだな」「今はまだ何言ってるかわからないけどもう少し先になるとわかるかな」「さっきと同じことを具体的に書いてるんだな」と何かしら考えながら読みます。それなのに、そんな私に文字で眠気を起こさせるとはこの本はとても珍しい本なんだなと感じ驚かされました。もちろん、前日にマイスリーを1錠半飲んで気持ちよく寝たのに、変な時間に叩き起こされたことなども影響しているかもしれませんが。
私はこの本を読み終えて、「ナチスは良いことをしていない」という主張じみた結論がやや先行りしすぎているように感じました。4〜8章は、「画期的で国民にとって良いように見える政策も、実は搾取の上に成り立つか前政権からの引き継ぎ政策である」みたいな話が主です。そのことを裏付ける政策や人物や数字が列挙されています。それ自体は著者らの言葉で言えば「〈事実〉」に基づいて「〈解釈〉」が整然と述べられていたので、評価に値する記述かと思いました。しかし同時に、ナチス自体には「新規性はなかった」「民主的な手法ではなかった」「よくなかった」のは結構なのですが、だったら「ナチスって何?」との疑問が深まりました。
ナチス研究者でもなんでもない一市民が、この本の読後に抱くナチス観は、ぼんやりとした政策面でも経済面軍事面でも文化面倫理面、どこをとってもパッとしない一政党です。せめて、ナチスはどんな手法で国民統合をはかったのか、ナチスという巨悪を生み出した当時の状況とはどのようなものなのか、を知りたいと思います。善悪の話ではなく、歴史上特異な存在であることは間違いないと思います。よく言えば多角的、悪く言えば広すぎて専門性にやや乏しい記述だったと思います。ブックレットだしこんなもんか…。思想面について紙幅のない中で「民族共同体」とかいう架空の共同体にまとめあげようとする過程についてふれられていて、興味を持ちました。悪の凡庸さがどうのこうの、アーレント的な話はここでは割愛したいと思いますが。
逆に。なぜ著者らは、このように平坦で凡庸なものとしてナチスを描かなければならないのでしょうか?ナチスが凡庸である、という印象は確かに私が彼らからうけとったものではありますが、なぜ私を含めた読者がそのような二番煎じばかりの特に評価するべき点のない「ダサい」存在として受け取るように、作者たちは意図しているのでしょうか。
そのヒントの一つと考えられるのが、私の兄です。著者も「おわりに」でナチスを賛美するクソリプ勢に対して苦言を呈しています。私の兄は日夜インターネットの怪しげなサイトから真偽も怪しい情報を得て、実名でツイッターなんかドブみたいなSNSをやってる研究者たち(もちろん兄にまともな研究者とインプ目的の自称研究家、陰謀論者かほとんど統合失調症みたいな人などの見分けがつくわけありません。)に、世には知られていないけど実はナチスはこうだとご高説を垂れています。
彼ら、すなわち兄を含めた陰謀論者や自称研究家たちは基本的に寂しいのです。そういうのにハマることこそが、彼らに信頼できる大人も友人も止めてくれる教師もいないことを示しています。いても彼らが無意識に拒否しているのかもしれませんが。そのくせ、彼らは人並みか、人並み以上の承認欲求を持ちます。人並みに満たされた体験が乏しかったことがかえって彼らの承認欲求を増幅させていると考えることもできます。そんな陰謀論者に、構ってくれる人、それも社会的地位を持つような人が現れるとどうなるか?彼らは飢えた獣です。彼らに構うことは、餌付けすることなのです。
そして実名でツイッターやってる研究者たちの一部には、象牙の塔に籠るのではなく大衆を啓蒙することこそが自身の使命だと考え、私の兄、すなわち陰謀論者や自称研究家に反応してしまう、ネットリテラシーの終わった輩もいます。
私の兄も、よく「某有名大学の准教授とレスバして泣かしたったわwあの人の授業聞く学生とか可哀想wやっぱあの大学も所詮Fランなんだよなあw」などと勝手に論争したとのたまった挙句、勝利宣言を下しています。兄は確かに某有名大学准教授からリプライは受け取っていましたが、それは兄の怪文書に対する疑問と批判と、兄の知識や道徳感に対する憐れみでした。
きっと知的な善意と暇を持て余して兄のような者にも誠実な対応をとったのだと思われますが、その反応は、「一般人はおろか専門家でも知らない、物事の知られざる一面を知っている特別な自分を知って欲しい」と考える兄ひいては数多の陰謀論者たちを付け上がらせるだけなのです。本当に名誉や立場があると自負しているなら、あまり変な人の啓蒙活動に手を出すのは危険だと思います。
ナチスが過激な民族政策をとったことそれ自体が、厨二病患者にとっては魅力的に見えてしまうものです。かててくわえて、意外と良い政策をしただとか新規性のある手法を発明しただとか、プラスな情報を付け加えると、それはそれで陰謀論者にとっては「知られざる一面」と写ってしまい魅力を持ってしまいます。
実在したナチスそのものとはなんの関係もない「暴走したナチスイメージ」が社会的弱者どもの受け皿にされているという現状がある、そしてナチスを兄たちのような陰謀論者の「オモチャ」にしてはならない、そういう危機意識が著者らにはあったのかもしれません。だからこそ、的外れで二番煎じでさしたる効果もない政策を繰り返す愚かな政権として描く必要があったのかと考えました。
私は基本的にインターネット上の情報を軽視しています。もちろん研究機関が年数十万出して課金するちゃんとした辞書のサブスクなどのわずかな例は別ですが。誹謗中傷はいけないことですが、特にネット上の誹謗中傷を間に受けて自殺するやつってどれだけ感受性が高いのでしょうか?本書は、かつてのネトウヨみたいな奴らの台頭や著者自身へのまとはずれな引用リツイートをきっかけに執筆されました。とはいえそれを実践できる著者たちは、とてもバイタリティのある方々なのだろうなと私は感心しました。そういえばネタにマジレスすることを馬鹿にする文化は、時代と共に霧散したのでしょうか?平成時代にあった、2ちゃんねると呼ばれるインターネット掲示板などで体験してきたようなするのですが。ひろゆきみたいなこと言って恥ずかしいのですが、ネタをネタとして見抜けない人があんまりインターネット触らない方がいいんじゃないかな。
戦争反対、ファシズム反対、みんな仲良く、平和万歳などと小学校の先生を喜ばせそうな生ぬるく甘ったるい論調は、岩波書店もまた好んでおり、出版するのだとよくわかりました。ブックレットだし出版コストも低く抑えられ、出版へのハードルも下がるのかもしれません。また、現に私がこの本を手に取った一つの理由に、私が大衆の一人であるから、ということもありますから。教師と岩波(とポリコレ研究業界)と左翼の話は別稿に割愛したいと思います。それはそうと先生は、2学期の始業式の国歌斉唱の時、一人だけ椅子に座ったままで歌わなかったのはなぜですか?そういう共同体の和を乱すものは、教育者としていかがなものかと存じますがいかがでしょうか。
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