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財布を忘れた父がいのちの味をおしえてくれた

「父さん、また財布忘れたって」

「財布忘れた」これは父と私の間の合言葉だ。

美味しくてありがたくてわざとらしい合言葉。



高校3年生の秋。
数学で過去最低点を取った。

頭を抱えていたのは…母だった。
当の私は、だろうな!という感想しかない。高1からジリジリと付いていけなくなってきたものが、露呈したというだけだ。

頭を抱えた数時間後に母は、医大生の家庭教師を手配していた。受験生であることにピンときていなかった私は、そうまでされても、勉強できない理由があった。

やりたい事もあるし、行きたい大学もある。勉強も嫌いじゃない。ただ夜になると疲れすぎて気力がわかない。眠たくて机に向かうことができない。やらなきゃいけないのにできないことの繰り返しで毎日自己嫌悪だった。


そんなある日父から誘われ向かいの蕎麦屋での晩酌に付き合った。もちろんノンアルコール。
つまみを分けてもらいについて行った。

そこで出会ったのが馬刺しだ。


うまの、さしみ?
訝しむとはこの事というリアクションだったと思う。

まあええから食ってみぃ

そう言われて食べた馬刺しは命の味がした。
決して食べやすいとはいえない臭み。
血液を感じる重たい味わい。

肉塊で頭を殴られたような衝撃。

その独特の味がたまらなく美味しかった!衝撃も相まって夢中で食べた。

くせのある肉と生姜の風味が絶妙に合う。
ツマとして用意されたオニオンスライスが口の中に爽やかに広がり食感も楽しい。
たてがみといっしょに口に含むと、とろける脂と肉の旨みが口いっぱいに広がる。

いくらでも食べれる。

黙々とがっつく私に父が言った。

多分今日は眠くならへんで。

その晩は、遅くまで机に向かって勉強した。
次の日もいつもより気力と集中力に溢れていた。

その日以来、父は一人でそば屋に呑みに行ったかと思うと、財布を忘れて電話してきた。届けた私の席には一人前の馬刺しが用意されている。

最初は父の忘れ物に苛立っていた母も、何かはわからないが私と父の秘密の約束があることを察知して、黙って財布を預けてくれた。

今考えるとあの頃の私は慢性的な貧血だったのではないかと思う。

馬刺しは貧血に効果抜群の食品だ。
不足すると貧血の原因となる鉄分やビタミンB12が豊富だ。おまけに高タンパク低カロリー。

受験生は最後の追い込み前に馬肉食べよう!と推奨したいくらい栄養価の高い食材だ。

ちなみに、馬食い行く(うまくいく)という縁起のいい語呂合わせもあるらしい。

父が栄養素のことを考えて馬刺しを勧めてきたとは思えない。精が出るからええやん!くらいのことだと思う。

しかし、父の気まぐれから馬刺しに出会ったことがきっかけでいのちを分け与えてもらった。
馬肉に出会っていなければ私はどんな進路を進んでいたか分からない。


「財布忘れた」
美味しくてありがたくてわざとらしい合言葉。

毎回毎回父が財布を忘れたおかげで、私は命拾いしたのだ。

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