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太陽の塔のような精神性

私は恋愛がへたっぴだ。

そんなことはとうの昔、自分が大学生の時には概ね把握していた。

というのも、普通の男ならばとっくに靡かれてしまうような、艶美で邪な場面でも恋人がいるからと踏み込みはしない。
誠実なふりをしていたが、本当はただ責任を取るのを忌避していた。崖の端のすぐ近くに立っている快感を失うのを恐れていただけなのだ。
別に恋人がいない時でも踏み込みはしないのがそれを証明している。

知らない女性と出会ったとき、アプリや合コンなど最初から「そういうこと」を目的とした場でもない限り、恋愛対象として見るのを躊躇する。
情欲のフィルターを通してでしか他人を見ることが出来ないのか、と底知れぬ気持ち悪さを覚えてしまうからだ。
反対に、最初の出会いで自分が露骨に狙われていると感じた時も、気持ち悪く感じてしまう。
そんなことは、殆どが妄想に過ぎないのだけれど。

異性間で友情は成り立つのか?という問いに対して、Noと答える人は多いが、こういう自分にとっては議論になることすら理解が出来ない。
じゃあ石原さとみが隣で寝ていても何もせずにいられるのか?だなんて言われるが、何時ものように大きないびきをかいて寝る自信がある。

年を重ねると、嘘をつくことも、人の嘘を見抜くことも得意になっていって、非合理性を楽しむための動物的本能も消えてゆく。
結局過去の恋愛を肴にして、その非合理性のみを抽出し、一銭にもならない嘲笑を友人とし続けている。


森見登美彦の「太陽の塔」という本がある。
私たちの非生産的な嘲笑は、この本で描かれている登場人物たちの精神性に極めて近い。
それが爆笑巨篇として扱われているのは、きっと心地が良くないことなのだろう。

希死念慮を抱くことも増えた中で、恋愛なんてする方がおこがましいし、優先順位は極めて低い。
しかし周囲はそれを許さず、自分の分離したかつての人格もそれを許さない。「もったいない」だなんて薄っぺらな言葉をかけられた回数は、優に三桁を超す。
ならば、私が死んだことも、既に自分で埋葬したことも気づかれていないうちに、今日も嘘をついていけばよいのだろう。


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