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午後の着信

 電話が来た。
 突然の着信音にはいつもドキッさせられる。恐る恐る、しかし鳴り続ける音にせかされるように応答すると、定期的に行っていた献血ルームからだった。O型の血液が足りないから来てくれないかという営業(献血の場合営業というのだろうか)の電話だった。

 服薬をしていることもあり、献血はできないことを告げて電話を切った。やり取り自体は一分もなかったが、スマホを置いてからなぜだかあの献血ルームのことを思い出した。

 献血ルームはビルの八階にあり、待合の時間は窓から街を一望できた。飲み物とお菓子も漫画もあってふかふかの椅子に空調もきいている。月に何回かは占いなどのイベントもあり、まるで献血がおまけみたいな場所だった。

 受付で渡される献血準備の完了を知らせるアラーム(音がやたらに大きい)を首にかけて、私は必ず紙コップの梅ソーダを飲み、形も味も薄いおせんべいを食べた。全く合わない合成された梅の香りとシュワシュワといいながら歯に挟まるおせんべいの食感がよみがえった。

 献血をする理由はいくつかあるが、単純に本来体の中にとどまっているものを外に出すという、ある種の怖いもの見たさのような興味が先行していたような気がする。血液検査ができるとか、健康にいいとか、人の助けになるというのは、むしろ後づけの理由だろう。

 それなのに、電話を切った後はなぜか、人の助けになれなかったことを妙に後悔する自分がいた。

無力感を乗り越える秘訣は、頭を空にしてほかの誰かを助けることだ。もし誰かに助けを求められたら…イエスといってみろ。

 最近見た海外ドラマのセリフが思い起こされた。イエスといいたいときにもノーと言わなくてはならない時がある。やりたいと思ってもできないこともある。今の僕の血液は外に出ることを拒んでいるのかもしれない。今は自分の中にいたほうがいいとおもっているのかもしれない。

 薬を飲まなくてよくなったら、また献血にいってみよう。梅ソーダを飲んでおせんべいを食べて。その時はきっと不似合いに大きい音で鳴る、首から下げたミスチルの「名もなき詩」にも動揺せずにいられるはずなんだ。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')