ゆうめい「姿」雑感② 親の姿 編
またまた大分時間が空いてしまいました。ゆうめい「姿」の感想第2回です。
これだけ時間が空いたのは、その間にいろいろと考えていたため…というわけでもなく、考えたり考えなかったり、えっちなこと考えたり、夜も寝ないで昼寝をしてただ漫然と過ごしておりました。あれ?「えっち」って平仮名で書いたほうが断然エロくない?っておもってたりしていたなかでもこの作品のことは何となくまた書きたかったので今こうして書いている。そういうことなのです。
前回書いた子の姿編とは対照的に今日は親の姿、とりわけ母親の姿について感じたことを書いていこうと思います。家族間のディスコミュニケーションの話題で終わった前回ですが、その原因が「やさしさ」と「思いやり」であったというのは、まぁ見ていると何となくわかるし、一見矛盾しているようで実は的を射ているみたいな・・・パラドックスっていうのでしょうか、そのたぐいのものであることは多くの人が感じるところであり、そこに心を揺さぶられた人もいるのではないでしょうか。
優しさと思いやりの功罪
そのなかで、今回親の姿を書こうと思ったのはとあるツイートを見たからでした。Twitterでこの作品の感想がずっと流れてくるのですが(というかゆうめいの感想ツイートのピックアップ力がすごい)、こんなのがありました。この意見に僕は懐疑的であると同時に批判的であるため、個人が特定されないよう、僕が気になった2点をピックアップしたいと思います。もし、自分のだ!と思った方、書かないでほしかったらいってください。
➀苦しくて素敵なお芝居
②家族に恋人に優しくしたくなった。
➀に関しては先ほど述べたディスコミュニケーションの原因が「優しさ」と「思いやり」からくるところなのかなと想像しました。問題は②のほうです。なぜ問題かというと、その「優しくしたい」という気持ちが、あなたにこの作品が苦しいと思わせた張本人だということをこの人は知ってか知らずか保留してたからです。この人はこの作品で描かれる家族そのものというか人間そのものの姿をしていたからです。
優しさにも思いやりにもいろいろな表現の仕方や、形があります。他人が端的にみて首を傾げたり驚くようなものもあると思います。でも優しさも思いやりも本質はまるで同じです。その本質は善意として解され、自分から発信されますし、他人から見ても善意以外の何物でもないのですが、その本質は善意ではありません。なぜなら優しさや思いやりの本質はエゴだからです。
自分は相手のことをこう考えて、こうだと思うから、相手にとって良いだろうと思ってする。そしてきっと相手もそれをわかって喜んでくれる。一見素敵なことのように見えますが、これって相手のことを考えているようで自分のことだけを考えている気がしてなりません。この作品に渦巻くディスコミュニケーションの根本にはこのエゴが蔓延しています。
ただし、自分がいいと思っていることを相手がいいと思うとは限らないというのはわかりきったことですから、相手が喜ぶという根拠を求めることになります。この作品でもそうでした。ただ根拠を求める先が相手本人ではなく、相手ではない第三者において根拠づけられた「優しさ」や「思いやり」だったために、この家族も例外なく対話があるようでないディスコミュニケーションに陥ったといえましょう。
話をすこしわかりやすくしてみましょう。子の母は自分がやりたい美術の世界に進みたかったですが、それを諦めて公務員になります。それは母の父が自分のやりたいことを押し通したために、母の母つまり、子の祖母にものすごい苦労をさせたことが原因になっています。母が公務員になったことを子の祖母は喜んでくれますが、一方で満たされなかった自分の気持ちは子へと向かうことになります。自分はできなかった、だから自分が幸せだと思うことを子にさせることが子の幸せになったのです。
一見して普通の考え方に見えますが、本当にそうでしょうか?このような思いやりの圧力を受けると子は自分のやりたいことと言って美術関係のことをし始めますが、勿論思うようにはいかない、もちろんおしつけていた母が思い描いたものでもなくなっていく。綿々と続くこの暗黙の希望コミュニケーションのおかげで、この家族の対話は一切なくなりました。
優しさと思いやりの暴力は最終的にはこの家庭を崩壊させるまでに至らしめますが、切れかかった家族の糸をつなぎとめたものもまたこの暴力でありました。
次回は親父のハッピーサマーウエディング編です。