自分を批判する自分について

とまらぬ本日のエニアグラム話、第2段。

自分の9に対する批判心って、自分の1部分なのかもしれない…と思いました。

自分の中にあるモノを表現すると「怠惰は悪」としかいえないんだよ。
1の自分に9の自分が監視されて、ジャッジされているような。

「それは意義があるのか?有用なことか?」
「今日一日、無駄な日を過ごしていなかったか?」
「こんなことをしている場合ではない」
「それはダメだ、それは無意味だ、それは価値がない、停滞している、だからお前は駄目なんだ」

うわキッツ。

このジャッジさん、わかりやすく形になっていることをすれば認めてくれるらしい。
イラストを仕上げたとか、本を読んだとか、マニュアルに従った自己分析や自己向上形の行動(何かをリストアップするとか)をとったとか、30分以上の有酸素運動をしたとかww

でも、それをずっと継続するよう要求してくるし
わかりやすく褒めてくれないし、ご褒美もくれないし!
こちとら無償でやってねーんだよ!と。

プロセスにこだわる、木を見て森を見ないというタイプ1の悪いところを押し付けられてる気がする。
(職場でも、どうでもいい細かいところをしっかりやろうとして、その作業の目的を見誤っていたことがある。細かいところにこだわって、気になって、ついきちんとしたくなってしまう)

そもそも前回の記事に書いたとおり

「生き生きとした人生を送ること」
「人としてのレベルを上げ、人生の充足度、満足度を上げること」

が目標なわけで
それっぽいプロセスや活動をして「自分今ストイックだぜ、それっぽいことしてるぜ」
みたいに自分に酔うための行動じゃねーんだよ!!w
やっぱりカッコつけたいのかよテメーは!!ww
自分の向上心部分、1と3のハイブリッドっぽいんですが、比重がよくわかりません。

わかりやすく勤勉でいることがよく、怠惰は悪である。
という、偏った思い込みを自分に押し付けられている。

これを手放したとき、自分のタイプ9に対する嫌悪感がなにか変わるかも?
思いのほか無自覚だった、自分へのプレッシャーと無駄な課題に気づいた感じ。

自分の中に凄い潔癖な部分があって、そいつが9の一部に対する嫌悪が凄いんだよなー。


うーん…
あれ、というかいまふと思い浮かんだのだけど

大昔、友人と大喧嘩した時
その喧嘩、タイプ9特有の鈍感さ、無責任な楽観が原因で起こったもので
(喧嘩って言うのは双方のタイミングもあるので、私だけが原因ではないはずなのですが、当時は全面的に自分だけを責めていた)
もう、自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、情けなくて、許せなくて、
もう私にとっては不完全すぎる失態で、もう恥で(恥じすぎ)
なおかつ、9部分で言う「繋がりの喪失の危機」も相まって
その時、9の欠点を強く責めるようになったような気もする…?

でも、その友人本人には最近「偉いよ、タイプ9のサラブレッドだよ!」とまで褒められたのに(ボキャブラリーがツボにはまった)、この自責は解決しない。
他者に認められれば救われるという類ではないため、自分の中のジャッジとの折り合いをつける必要がある。

「繋がりの喪失への危機感」という9的動機、1的な欠陥への恥の意識、6分裂的な不安から必至に色々考えて解決しようとしたり…って感じ?でやってたかな?
ここまでこんがらがってると、どこかこじつけもありそうだけどw

あと、私は過去の出来事をよく忘れるので
これももはや記憶のつじつまを合わせるための捏造かもしれません。
自分の中で納得がいって、折り合いがつけば、真実である必要はないのかね?
目的は真実の追求ではない。

だいぶ個人的な分析になってしまった。
普段はこういうの水面下でやってることなのですが、思い切って露出しちゃうよ。
恥ずかしいけど、自己主張の一環だよ。

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