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舞台『歌舞伎町シャーロック』感想と、ズキアラという最高の俳優について


舞台「歌舞伎町シャーロック」お疲れ様でした。
配信も終わったので、感想なるものを書いてみようと思います。
最高に面白い作品に出会えた、という嬉しさが一番。作品としてとてもクオリティ高く、メッセージ性も強い。つまりは最高。

結論から言うと、「舞台かぶしゃろ」は“他者と共に生きていく”ことの難しさと、そのかけがえのなさを描いた作品だと思う。

他者性についてはワトソン役の鈴木さんも言及されていた通りのことで、なんだか後出しみたいになってちょっぴり悔しい。でも私の感情は私だけのものなので、公演期間中に考えていたことと、今振り返って思うことを書いていこうと思う。
3つの事件に沿って、ネタバレしながらワトソン(とシャーロック)を中心として感じたことをつらつらと。

まずワトソンが客席から登場。
新宿區イーストと、そこに渦巻く闇へ誘うストーリーテラーも彼の役目だ。
観客に一番近い視点をもった立ち位置として設定されているのだろうけど、100%そうかと言われるとちょっとしたノイズがある。そのノイズが舞台かぶしゃろのワトソンくんの面白さだと感じる。
的確な表現が貧弱語彙により捻り出せないので、俗っぽく、高慢さと傲慢さ、と表現してみる。
まずここで顔を覗かせる、ワトソンの高慢さ。10年前にイーストにきたときの思い出話。「いくらにたっぷり醤油をかけていた目付きの鋭い、おそらくイースト育ちの少年」(=シャーロックを匂わせる発言)に「食育とか受けてないんだろうな」と勝手に「落ち込んだ」という内容。
うわ、と思った。ワトソンくん、これからイーストでやっていけるのかね、と。
もちろんこれは彼の心の中の声なので私がとやかく言えるものではないが、観客へ開示(語りかけ)をしているので不快に思う筋合いはある。
勘違いしないでほしい、私は舞台版のワトソンくんの悪口を言いたいわけではない。この心持ちのワトソンくんがどうイーストで生きていくのか、より楽しみになるから好きなシーンでもある。

出会った高校生(モリアーティ)に案内されるがまま、パイプキャットへ。
オープニング、歌舞伎町の人混みを縫うようにして擦り抜けていく猫背で速歩きのシャーロック。ぼーっとしているといつの間にかいて、いつの間にかいなくなっている。舞台に立っているのに、気配って消せるんだ。新良エツ子先生のパワフルな歌声が、歌舞伎町のギラついたネオンと渦のような奇妙さにリンクして、物語の始まりを際立たせる。

パイプキャットに到着したワトソンは意気込んで扉を開ける。そこにはおそらく彼の人生ではあまり出会ってこなかったであろう、おネエさま方と異文化。あからさまに引きつった表情(セクハラされてるのでそれはそれ)。顔を「勝ち組」と言われたときの謙遜のなさ、京極さんをウエストの人かもしれないと思ったときの安堵の表情。異性装まではいかなくとも髪型や服装で一般的な女性らしさ(この表現微妙…)を抑えたルーシーへの驚き。ぜ〜〜〜〜〜んぶ未知との遭遇の反応。相手がどう受け取るかは、さほど考える余裕はない。
それもそう、命からがら逃げてきて、唯一の頼みの“シャーロック・ホームズ”を探しているのだから仕方ない。斜めがけのカバンのベルトをぎゅっと両手で握っていて、その動作から必死さと寄る辺なさの不安が見て取れる。
切り裂きジャックの話に聞き耳を立て、アレクサンドラの話に半年前を思い出す。
独り残ったシャーロックを覗き込みながらじりじりと近づいていくワトソンは、ハドソン夫人が何をしていても一瞥もくれることはない。必死なので。運命の出会いでもあるので。

シャーロックにあしらわれてもめげずについていくワトソン。置いていかれる度に出る「シャーロックさん!」が切実で好き。
事件現場に到着して、レストレイド警部から身分を質されそうになった時に、彼はうまく言葉を発せない。アニメは「彼の運転手です」だった。舞台は徒歩で現場に向かっているという違いもあるが、舞台ワトソンは「じょじょじょじょじょじょ…………、とにかく!見習いです!」と誤魔化す。「助手」と「見習い」はどちらも結果としては嘘だし大差はないように思えるのだが、彼は「助手」とは言えなかった。
ここに、彼の生真面目さがある。
監察医をしているワトソンにとって、「助手」は仕事や研究が円滑に進むように手助けをする役割である。だから、自分のしていることがシャーロックの捜査の邪魔になっていることを自覚しているため、「助手」という言葉を使えなかった。ワトソンくん、変なところが思慮深くて生真面目で、面白い。人ってそうだよね。

でも子ども(ヨシオ)に財布をスられたとわかった時に「どういう生き方してきたんだよ」と口にする。
あ〜あ、言っちゃった。
ワトソンくんは被害者なので、憤るのは当たり前。被害者を責めるつもりは毛頭ないが、窃盗をしないと生きていけないような環境で子どもが生きているという現実は彼には見えていないのだろうな。しかもこの時のワトソンの認識としてはシャーロックはイーストの人間である。そのイーストで育った人間を前にしてその発言ができてしまう、他者の見えてなさにワトソンの傲慢なところが見える。いい人で終わらない、ただのお人好しじゃないワトソンがいかにも人間らしくて面白い。
それに対するシャーロックは、彼なりにワトソンを諭す。シャーロックはイーストの人間が置かれた現実が見えていないワトソンを、拒絶しない。静かに現実を伝え、そのまま捜査に戻る。ここに彼の根っこが見える。人を知りたいんだと思う。他人であっても、相手を見ていない人でも。 

キリがないので割愛するが「匂わないかい?」にシャカシャカしゃしゃり出て「事件の匂いですか!?」と返すところ、風俗店へ「入らないんですか!?」、仁王立ちして「我々はどうしますか!」「勝手に我々にするな」はワトソンくんが喧しくて図々しくて、シャーロックがうんざりしていて可哀想で大好きだ。やりとりのテンポがあまりにも良すぎて、本人たちの意図せず最高のコンビになっていてくすっと笑ってしまう。
話しだしたらきりがないが、ジャックを語る声の固さ、シャーロックが番号を見たいと言ったときの「ダウンロードすれば見れますよ」の声色の優しさ、最高。常々、声色の魔術師だと思う。

シャーロックの事務所に上がり込んで、高座をまじまじと見つめるワトソン。つくづくうんざりしているものの力尽くで追い出そうとはしないシャーロック。舞台版のシャーロックはワトソンに甘いと思う。そしてチャーハンに桃缶は合わないと思う。
ここで一席。
ここ、ニヒヒヒヒヒと笑うシャーロックと目を合わせて似た笑顔を浮かべるモリアーティが可愛い。「モーモー犯」「おやおや牛がいるね」と
「ふろはいりんぐ」「風呂に入ってどうするんだい、全くどうしようもないね」のやりとりが面白すぎて毎公演ゲラゲラ笑ってたんだけど、ここで笑ってるの私だけだったね。

ワトソンが偽ジャックに気づいてから、シャーロックは得意げに笑って着物を脱ぐ。本来なら羽織を脱ぐのが落語の所作だ。ここで、これはまくらだったのだと気付かされる。事件の真相が本筋。
「落語にする必要あるんですか?」と単純なワトソンの疑問はごもっともで、それに本気で怒るシャーロックが可愛い。キッ。全然心のこもっていないワトソンのお世辞にも「なかなか見る目あるな!」と返して、じっとワトソンを(不思議そうに/品定めするように)見つめる。言葉をその通りに受け取る、度を超えたピュア加減。
事件が解決し、モリアーティに差し出された左手で握手をし返すワトソン。左手の握手は敵意といわれていて、わざわざ言及されていたのはそういうことなのかな。これはまた後ほど。
偽ジャック後の語りも最高。「時を告げる象が嘶き〜」の視線の振り方、「探偵たちはいた!」のあとの振り返り、語りと現実との行き来、語り手をやらせたら鈴木裕樹の右に出るものはいない。

モリアーティのアシストが功を奏して、シャーロックの家に居候をすることになる。ここでワトソンがシャーロックの視線にたじろぐ姿が面白い。依頼を聞いてほしいだけでなく、あわよくば身を置ける場所がほしいと邪な気持ちもあるワトソンは、弟子をとることに期待するシャーロックのピュアすぎる視線に耐えられない。
後述するが、視線はバディの中で2つ目のキーワードだと感じた。

モリアーティと話しているワトソンをしり目に退屈そうにあたりを見回してくずかごを手に取りしばし考えてから、わざとらしくひっくり返すシャーロックが健気で可愛い。
試し行動に近しい何かを感じる。他人と生活するのが初めてで、どこまでこの人間が自分を許してくれるか。「わざとですよね」の言葉、シャーロックは嬉しかったんじゃないかな。自分をわかってくれているような気になるのは心地良い。ワトソンの傲慢さとシャーロックの孤独感がパズルのピースのように嵌っていく瞬間。

居候になってから最初の事件は、ダイアナさんの彼氏捜索。
助手というより召使いは、たしかにそうだけど、自称は居候。まだ助手だとは言えない。
依頼を後ろで静かに聞いている(かどうかよくわからない様子の)シャーロックと、その視線を追いながら真意が掴めないで首を傾げるワトソン。このちぐはぐ感がいい。
シャーロックは話に興味がないわけではなくて、いろんなことに興味があるんだと思う。どこか一点を見つめていたときもあるし、一点を見つめて笑っていたときもあるし、お尻をフリフリしながらはしごを上り下りするハドソン夫人をじっと見上げていたときもある。いつもその視線の先をワトソンは追って、不思議そうにしていた。シャーロックが依頼を受ける気がないのか心配して、顔を覗き込むが真意は不明。ポケベルを受け取ったシャーロックに、安心したように笑うワトソンはまだまだひよっこのようで可愛らしい。速歩きでパイプキャットをあとにするシャーロックに腕を振りながら追いかけるワトソンは、ピカピカの1年生。

お使いワンちゃん。この話は相棒オーディションなのだと思う。
メアリの色仕掛けに、あっ……あわ……………したあとにへらへらするワトソン。へらへらへらへらしてるのは中の、初ちゃんがいいおじさんによるでれでれもある。怒られろ。このあとにプシュルルルっと顔をぷるぷるさせるのは、まさにおつかいをするワンちゃん。可愛い。メアリに盗聴器を仕掛けられたワトソンへシャーロックがかける言葉が「お前やっぱ向いてないよ」なのも、この語尾と言い方がやっぱり優しい。甘い。「もう俺の前に現れるな」だけど。

シャーロックにおいていかれて、とぼとぼと夕方の街で黄昏れるワトソンの背中が哀しい。ここの「シャーロックさっ……」の声も切実でいい。レン子に差し出されたチョコを「ありがとう、お嬢さん」と頭を撫でるワトソンは彼の育ちの良さと無用心さが際立って好き。
「ちゃんと助手してる?」というモリアーティの問いに「主に召使いを(怒)」と怒りを露わにする一方、「探偵の助手なんて、僕には向いてないよ」と肩を落とす。目を覚ますような冷たい風の音がする中、まだ15歳で自分の半分ほどの年齢のモリアーティから現実を突きつけられる。「ああ。」不貞腐れたような返事。自分の甘さを正面から指摘されて、不機嫌を隠さない彼の素直さがまた面白い。
なぜシャーロックにこだわるのかと聞かれた時「あの人しか…」とたった数日だけど彼のことを思い出して微笑み「いない気がして」と、確信した発言。これに、口だけ笑ったあとヒントを与えるモリアーティは、やっぱり左手の握手に意味があるのかな。
小林のエピソード、アニメでも好きだったので嬉しい。寅ちゃんに対してとってつけたような言葉にも一切気が付かない小林のお人好し加減がすごい。本気で感動しちゃうワトソンもピュアすぎる。

進展ありから、推理落語。
ここのシャーロックが好き。
ダイアナさんの彼氏の藤沢さんの性的指向に見当をつけたとき、その真相に辿り着けたことが嬉しくてイヒヒヒヒと笑ってしまい、ルーシーを傷つけてしまう。ルーシーから強い言葉を投げかけられて、叱られた子どものような顔をして居心地が悪そうにしている。
ダイアナさんと藤沢さんが当人同士で円満解決した時も、落ち着きなくきょろきょろと周りの様子を伺っている。
落語の中でご隠居として諭していた姿が、嘘のように小さくなる。他人を拒絶しているわけではないこと、人の心を理解したいが実感が持てていないことが感じられて、彼のいじらしさが好きだ。

というのも、偽切り裂きジャックの話、ダイアナさんとたもつさんの話、どちらでも人の心を解いていくシャーロック本人はそこに関わる人の心の動きや心に存在する矛盾を理解できていない。
興味を持って、知りたいと思って彼なりに色々なパターンを考えて落語をしているのだろうけど、内面化まではされていない。
だってそれはあくまで“噺”で、当事者性がないから。落語や物語は他者の視点を教えてはくれるけれど、経験とは比べ物にならない。百聞は一見にしかずとはよく言ったもの。理屈じゃわかっていても自分事として体験しない限りは、なかなか人の心はわからない。
この場面のワトソンに関して言うと、シャーロックへの理解者面が生まれていて、彼の積極性に感動する。
プロボクサーの藤沢さんを力尽くで連れてきて「シャーロックさん、藤沢保さん、お連れしました!」お使いワンちゃん、お使い成功である。依頼人のダイアナさん宛ではなく、あくまで飼い主のシャーロックへ獲物を献上する。(シャーロックは二度見したあとに悔しそうにそっぽを向く。終始悔しそうにへの字口で、でも藤沢さんやワトソンの言動に意識を向けるシャーロックは負けず嫌いそうで可愛い)

藤沢さんの話を聞きながらどんどん視線の温度が下がっていき、腕を組むワトソンは絶対零度で好きしかない。「嘘、ついてますよね」からの一連の痛いところを正論で刺していくワトソンはマジレス野郎の片鱗が見える。
「僕にも探せるくらい」でシャーロックの顔を覗き込むのは少し嫌味っぽくて人間くさくて好きだ。シャーロックも、さらに悔しそうにもぞもぞしてるのも可愛い。

そしてモリアーティの手を2回叩くのを合図に、高座にいそいそと向かうシャーロック。彼の屈託のない笑顔に、ワトソンはこれでもかというほどの優しい微笑みを向ける。2回目でしょ、推理落語見るの。この理解者面こそワトソンの性格を表しているのだろうし、シャーロックはこれを見てるか見てないか分からないけれど、こういう笑顔を向けられるのは存在の安心に繋がるだろうなと思う。
ルーシーが泣いていたのを「見逃さなかった」と言うワトソンは、祝福の拍手をしていないマキには気が付かない。ここも彼の傲慢さや甘さが感じられて、語り手としての不十分さがあってその後の展開を知るとなお面白い。

3つ目の事件、切り裂きジャック。
夏仕様の衣装。視覚的にも時間の経過がわかる。
ハッピーバースデー!モリアーティ!
ここのシャーロックの口の動かし方、観ました?みんなより一拍遅れて、視線を彷徨わせながら口先でぼそぼそと、でも伝えたい気持ちを口にするシャーロックのいじらしさよ。
モリアーティへ「これからもシャーロックをよろしくね」というハドソン夫人の言葉にふてくされるシャーロックに「あはははは!」と豪快に笑うワトソンから、彼らと距離が縮まっていることがわかる。
それだけでなく、シャーロックと自分の飲み物を取りに行き、シャーロックから少し離れているだけなのにしきりに様子をうかがう姿から、二人の距離の変化も感じられる。
「「知人」」と答えが重なった二人に声を上げて笑いそうになるのを口を押さえて我慢しようとするのも、シャーロックの不機嫌ポイントをおさえているように感じられていい。その後のモリアーティとのやり取りに素直じゃないシャーロックに、眉尻を下げて仕方なさそうに笑うその優しい表情よ。
この日までにきっと混沌としたイーストの事件をいくつも解決してきたのだろうなと思わせる関係。でも相変わらずシャーロックの偏食には新鮮に驚くのも、彼らの感覚の違いを感じられて面白い。
ここで初めてワトソンはシャーロックが落語に入れ込んでいる理由を知る。ということは数ヶ月経つまでワトソンはシャーロックを、ただ“事件を落語で解決する人”という認識で隣に居たというわけだ。強靭すぎる。気になるだろう、普通。推理落語なる、問いただしたくなるようなものをそのまま追及せずに存在するものとしてワトソンは受け入れている。何度も聞くチャンスはあったろうに、“シャーロックはそういう人”とシャーロックをシャーロックという存在のままワトソンなりに受け入れているのが、“他者と生きている”ことを物語っている。
京極無双に「あ〜あ〜あ〜あ〜、」と声に出したりレン子達に話しかけられて返す姿はすっかり長屋の一員だ(千秋楽でレン子がゲキレンジャーの変身ポーズ「ビースト・オン」をしており、素で笑うワトソンくんの中の人が愉快だった)。ワトソンはワトソンのまま、彼らとともにいるのだと感じられる。

USBの奪還依頼。
ダイアナさんの依頼の時は奥に控えるシャーロックのさらに奥の暗がりに立っていた彼が、シャーロックの少し前に並び立ち会議に参加している。そして発言をして京極に詰められる。シャーロックの「金で解決すればいい」に「(なんでそんなこと言うんですか!)」とばかりに肩を怒らせムッとするのも彼のお人好し度がわかる。

アイリーン来訪。USB解析依頼。
ここの傍白の声色の使い分けも最高。
ハキハキと話しだし、被害者であるアレクサンドラについて「15歳の女の子だった」と犯人への憤りを露わにし、モランの支持率の急増の疑念は地の底から這い出るような低い声に変化し、話は着地する。
次々に依頼を引き受けると決意しパイプキャットをあとにする面々と、小夜師匠のチラシを夢中で見ているシャーロック。
受けるべきだ!よね?みたいな顔をして正面から覗き込むものの、シャーロックはそのままなので苛立ちも隠さずに後ろから肩を揺する。回を重ねるごとにここの揺さぶりが激しくなっていって遠慮のなさに面白かった。(メタ的な話、鈴木さんが新木さんをこんなに雑に扱う姿は見たことがないので、役だからできるものだよなと感じたりもした)
この身体接触を含む少し荒っぽいふるまいから、二人の距離が前回かなり縮まっているのがわかる。
アイリーンに言い寄られて(?)キャパオーバーになり寿限無を唱えるシャーロックが可愛い。完全に唱えられた時は奇声をあげていたのも微笑ましかった。それを苦笑いで見たワトソンは(この有り様じゃ)無理じゃないかと助け舟を出す。結局はバリツの使い手であることを理由にシャーロックとワトソンがアイリーンの護衛になる。

ワトソンはなぜ自分まで隠れ家を教えてもらえたのかと尋ね、夫人の「それはあなたがシャーロックの助手だからよ」という答えに「はい!」と嬉しそうに返事をする。ワトソンは助手として周囲から認められていること、そして“助手”を自認してること。3つの事件を通して彼の成長がうかがえるシーンだ。ジャックに居場所が知られたら自分を疑うと言われても、責任感のある返事をする。そんなことはありえないと思っているから。
アイリーンからシャーロックはUSBを託され、張り切っているワトソンはお使いメモを渡される。買い物の分担を申し出るも断られ、不満そうにシャーロックの後ろ姿を見つめる。
シャーロックから助手として頼ってもらえないことへの不満を京極に打ち明けるワトソン。助手を自認できるようになり、周囲からも認められたとしても、肝心のシャーロックが自分を助手として扱ってくれなければ意味がない。

シャーロックはUSB解析へ、仕事を与えられないワトソンはパイプキャットで管巻きへ。
USB解析で椅子の上に体育座りをして膝を抱えながら文句を連ね、メアリにでこピンされて「いでっ!」と情けない声を出すシャーロックはもはや親しみしかない。ずいぶんと人間らしくなったのだなと感じる。それもそうで、ワトソンと過ごしていくうちに、どんどん彼は温かみのある人の面が出てくるようになっている。表情が増え、それを自分でも自覚しているように見える。
ワトソンは自分にできることを!と思いアイリーンを見守るが、それも虚しくジャックに襲撃されてしまう。

ここからのパルクールが今作品の見所の一つでもある。
新木宏典、最強の不惑。
歌舞伎町を駆け回り高所で格闘する姿、着地のロールという技は目を見張るものがありすぎる。あの薄い身体のどこにその体力があるのか。一方、腕力を駆使したワトソンのパルクールも差し込まれているが、それよりも、小さい段差を大仰にぴょんぴょん跳ねる喧しワトソンくんが見切れて面白い。どちらもぜひとも映像で確認していただきたい。Blu-ray、絶賛予約受付中。
アイリーンの元へ駆けたときには時すでに遅し。アイリーンは刺され腹部から多量の出血、その場をワトソンに託したモリアーティはどこかへ向かう。ここからワトソンはモリアーティを疑い始める。観客にとってはモリアーティのモデルはモリアーティ教授なので、原典の敵役に戻るのだろうと思わせる展開。ここの目だけをモリアーティの去った方へ向けるワトソンの表情が素晴らしい。シャーロックにも頼りにされず、モリアーティにも疑いを持ち、ぐるぐると回る思考を声色と視線で表現する。

アイリーンの死を伝えられ、自身の依頼を話すように促される。考え込むシャーロックに食事を作ろうと申し出るワトソン自身も憔悴しきっていて、ろくに食事をしていないだろうに、優しさが伺える。
心当たりのない使いかけの桃缶を発見した時、シャーロックは焦ったように冷蔵庫を閉め、ワトソンを追い出す。ここのシャーロックの動揺が凄まじく、ミスリードとしては芝居がうますぎると感じた。捜査にあたって芝居がうまいシャーロックではあるが、ワトソンを追い出したのは(舞台版では)自分のついた嘘に気づかれてしまうのではないかという不安もあったように思える。

モリアーティへの疑念を抱きながらパイプキャットにいるワトソンには照明が当たらない。彼の気持ちはアイリーンの死を悼みながらも、モリアーティ(ジャック)がUSBを持っているシャーロックの命を狙っていると考えているので、死を嘆く面々(照明があたっている)に加われない。実は京極とマキも照明の外でいちゃついている。
小林の「この街にいると、こういうことはあるっちゃある」という言葉が、無秩序的な歌舞伎町イーストのみならずどこかのリアルを物語っているようで苦しい。何もできなかったと嘆くワトソンを諭しながら、アイリーンに献杯する小林と京極。
シャーロックの事務所に戻ると、シャーロックの背後に立つモリアーティに出くわし、「シャーロック!」と大声で叫ぶ。本当に大声。真意とは異なる言葉を震えた声で紡ぐワトソンをじっと見ているシャーロックだが、モリアーティが去った後はワトソンから視線を逸らす。

ワトソンはモリアーティをジャックだと伝えその理由を説明するも、モリアーティには場所を教えてあったと一蹴される。
「あいつは信用できる」と目を見て言われたワトソンは咄嗟に「でも、モリアーティと僕、どっちが大事ですか!」と詰め寄る。しかし虚しく、再び視線を逸らしたシャーロックは被せ気味に「モリアーティ」と即答。それに「“なんでそんなこと答えなきゃいけないんだよ”とかもなく…!」と項垂れるワトソン。アイリーンの件で自分は信用されていないと悩んでいたワトソンにとってはショックが大きい。「あいつと俺は似ているんだ」と続けるシャーロックに「知りませんよそんなこと!このままじゃあなたが…」とUSBを持つシャーロックがジャックに狙われてしまう危険性を訴えている最中、「お前の方こそジャックと繋がっているんじゃないのか!」と再び視線を戻してきつく放たれる。さらに「二度と俺の視界に入るな」と拒絶の言葉を投げかけられたワトソンは視線を逸らし目を隠すシャーロックの前にまわりこみ「ああそうですか、勝手に、ジャックに殺されてください!」と怒りをあらわにする。そして机を叩き「で、今際の際で後悔してください、“ごめん、ワトソンくん”って!」と吐き捨てる。
部屋を出たワトソンはパイプキャットでいつも通り京極に悩みを話す。解析のためとはいえ、USBを盗むことはシャーロックを裏切ることになるので、ワトソンは思い悩む。最後の最後までシャーロックを裏切るような行為と助手としての自己認識が揺らぎながらもシャーロックのためだと決心し、USBを京極のもとに持っていく。
しかし、そこで待っていたのはUSBを力ずくで手に入れようとする中毒で手が震え暴力的になった京極だった。揉み合いながらも、刃物で脅されながらも、ワトソンはUSBを手放さない。

ここでワトソンのパルクール。
役作りにあたって10kgも増量し、筋トレを欠かさない不惑、鈴木裕樹。
パンプアップされた上半身を駆使した腕力がひかるパルクールは襲われているのに、どこか華麗な身のこなしを感じさせる。
とうとう京極にUSBが奪われると思った瞬間、シャーロックとモリアーティとハドソン夫人が現れる。状況が飲み込めないワトソンにアイリーンの死亡が嘘だったことを伝えられ、シャーロックは「お前は探偵長屋の穴だったんだよ」と伝えると、驚いて見開いていた目に怒りが宿る。その視線から逃げるようにシャーロックはワトソンに背中を向け、モリアーティが朗々とこの嘘の真相を語る。
「あんまりじゃないか…」と低い声で項垂れるワトソンを無表情でじっと見るモリアーティと、体を背けたままのシャーロック。
「あんまりじゃないか!」と激昂し、モリアーティを押しのけてシャーロックを殴り飛ばすワトソン。

「俺は!あんたが心配で……!あんたを助けたくて……!」

そのまま転がったシャーロックの胸ぐらを掴んで、本気で怒りをぶつける。
この人称詞に日本語の妙がある。
これは舞台オリジナル。(アニメでは「僕は君を助けたくて…なのに、酷いじゃないか!」だった)
終始一人称が「僕」だったワトソンがこの瞬間のみ「俺」になり、「シャーロックさん」や「君」だったシャーロックへの二人称が「あんた」になる。
ワトソンの使い分けていた分裂した自分(ネガティブな意味でなく、日本人はみな場面によって自分を使い分けていること)から、本当の自分の奥にある「俺」が表出し、さらに「あんた」というかなり近しい二人称でシャーロックを捉えていたということがわかる。人間(日本語話者)の複雑さ、人間の奥深さが感じられる言葉である。脚本なのか演出なのか、この意訳を考えた人には金一封を贈りたい。(これは本筋から逸れるので後述するが、鈴木裕樹だから表現できたワトソンの言葉だと私は思う)

「なのに、酷いじゃないか!本当に……本当に心配したんだ!」

わなわなと震わせていた体から力が抜け、その場に座り込んで泣きじゃくるワトソン。初見はワトソンを甘ったれに感じ、なんとも言えない気持ちでこの場面を見守った。しかし劇場に駆けつけてくれた友人からの感想を聞き、ワトソンがどれだけ愛されて育ってきたのかがわかる部分だということに気づいた。
愛されて育ち、人に愛情を持ち、人を信じ、人からも信じられたがる。人はみな甘えて甘えられて生きていく生き物なのだと。
ワトソンの怒りは騙されたことだけでなく、自分は裏切りのような行為に本気で悩み、その末にどうしてもシャーロックを守りたいと思って起こした行動を利用されたこと、信用されていなかったこと、不安からの解放……などなど様々な感情の濁流のような激昂だと考えた。ここの鈴木裕樹の芝居は、この作品の中で最も熱く、心に響くものだ。

初日に観たとき、度肝を抜かれた。
私は彼のお芝居を観始めてまだ9年、お茶の間時代を合わせても17年、ゲキレンジャーで彼を知った永遠のド新規だ。だが誇張せずとも、今まで観てきたどの作品でも観たことがない激情だった。
彼の武器は、淀みない滑舌、自由自在な声色、メトロノームのような強靭な安定感、人を惹きつける大きな声だ。計算ずくで緻密な芝居を組み立てている印象がある。
その彼の全てのリミッターが外れた表現があの瞬間で、役を超えた生の人間の感情があの空間、あの劇場にはあったと私は思う。

もちろんワトソンくんの言葉として、ワトソンくんの怒りとして、あの空間に存在する。だが、本気がそこにあったと私は感じた。こんな鈴木裕樹の本気を引き出せるのが新木宏典が演じるシャーロックなのだと思うと、このタッグでこの表現に出会えたことが幸せこの上ない。
千秋楽では衝撃のあまり、あのワトソンのベルトがするりとほどけたことも記憶に新しい。

一方このシーン、シャーロックは殴られるまで全く身構える様子はない。
ワトソンに胸ぐらを掴まれていても、どうして怒られているのかわからないような表情で、ずっと不安そうに瞳が揺れている。ワトソンに怒りの感情があるのはわかっているので視線から逃げたが、その怒りの理由を本当の意味では理解していない。あの怒りにあてられて不安そうに眉をひそめ、わけも分からず目に涙がたまっている時もあった。その姿は痛々しいほどに幼くて可憐だった。
きっとシャーロックが他人からの強い思いに触れた、初めての経験なのだろう。だから何よりも自分を心配しての怒りだったというのは想像ができなかった。しかしワトソンをとても怒らせてしまったことは理解できるし、ひどく傷つけてしまったことも理解できる。ワトソンの思いを受け取ることができた。
あの表情は、その瞬間の正しい答えを探していたようにも思えるし、ワトソンに申し訳ないという気持ちもあったのだろうし、どうしたら許してもらえるだろうかという不安もあったように思う。あの難解な感情を経験したことによって、彼自身、感情や人を大切に思う気持ちを認識できたのだと思う。今までこんな関係を他人と築いたことのない彼だけど、彼なりに考えて口をついた消え入りそうな一言が、彼の初めての「すまない」だったのではないか。

ここからシャーロックの話を少し。
先述したところとも重なるが、シャーロックにとって理解できない、人の感情について。
人の心を知りたいシャーロックが手を伸ばしたのは落語だった。でも落語の中で理解できるものも、実際の人間になるとよくわからない。だってそれはあくまで“噺”で、当事者性がないから。落語や物語は他者の視点を教えてはくれるけれど、理屈じゃわかっていても自分事として体験しない限りは、なかなか人の心はわからない。
だからこの瞬間、シャーロックはワトソンの複雑な気持ちに触れ、体感し、人の心の複雑さを一片であっても感じることができたのではないかと思う。丸裸の心をワトソンにぶつけられ、自分も同じように心と向き合った瞬間。

モリアーティから、シャーロックは乗り気でなかったことを伝えられたワトソンは我を取り戻し、シャーロックに「いや……」と返す(ここもアニメとは異なり、アニメでは「うん」だ。真逆の言葉であるが、これも意訳の妙である)。
そしてモリアーティがアレクの兄であったこと、モランの息子であったことを知る。彼のショックは無惨に殺されたアレクの亡骸を思い出し、さらにモリアーティがその肉親だと知ったことに由来するのだろう。

そして切り裂きジャック捕物始末。
待機している面々の中に、ワトソンがやってきて高座を見つめる。シャーロックが礼をした時、一番に拍手をするのはワトソンだ。この時モリアーティは拍手をしない。偽切り裂きジャックも藤沢保の件も拍手を扇動していた彼はポケットに手を入れてじっとシャーロックを見つめている。(舞台版は京極の縛られ方がなかなかにハードで、笑ってはいけない歌舞伎町シャーロックだった。ずるすぎる)
シャーロックの推理落語が進んでいく中、勘づいた探偵たちは早々に駆け出し、真犯人を追う。

京極が操られていたことを話し終え、真犯人に言及するにあたり、シャーロックは着物を脱ぎ、まくらは終わる。最後まで聞き入っているのは、相棒であるワトソンのみ。客席に迫る高座、聞き入るワトソン、歌舞伎町の街を駆け回る人々。パルクールと大胆な演出を取り入れた疾走感あふれる表現に、目が足りない。

そして真犯人にたどり着く。
京極の最愛の人、穂刈マキだ。
シャーロックとワトソンに問い詰められ、マキは本性をあらわす。本性を目の当たりにしたとき、シャーロックは表情を崩さないがワトソンは驚きを隠さない。推理をしているのはシャーロックなのだから当然かもしれないが、私はこの後のシャーロックの言葉がそのヒントになる気がした。

マキのしてきた殺人や死体損壊をシャーロックは鋭く非難する。自分の気持なんかわかるわけ無いと怒るマキに、シャーロックは被せ気味に「わかるさ」と返す。そして「コンプレックスの裏返し、無い物ねだりで拗ねている駄々っ子」と続ける。
ここに驚いた。
(アニメは「快楽殺人犯のお前の浅はかな考えなんて容易に分かる」というような言い方だと感じた)
舞台版のシャーロックがマキに投げかける言葉は切実だ。ここには彼の“共感”がある。
「無い物ねだり」は、シャーロックが人を心で理解することが苦手で落語に手を伸ばして人を理解しようとしていること。「拗ねてる駄々っ子」は、破門されて落語家の道を閉ざされても諦めきれずにこうして推理落語という形で落語にすがっていること。
シャーロックとマキ、そしてモリアーティは根底が“同じ”なのだと思う。彼らの苦悩は他人にはなかなか理解されない。
「怖いのか?」という質問に「怖いわけねぇし!俺は完璧だし!」とマキは肌身はなさず持っていたコンパクトとリップを投げ捨てる。マキにとっての武装であった化粧。理想の自分を作る道具を投げ捨てて、マキは自分を剥き出しにする。

そこにモリアーティがたどり着き、最後の悲劇が始まる。
ワトソンにできることはなにもない。止めようにも、モリアーティに声は届かない。止めようとするワトソンを抑えるシャーロックは、気の済むところまでやらせようという甘えがあったのだと思う。自分が止めれば止まると思っていた。
モリアーティが「アレクの存在は自分が生きる理由だった」と慟哭した瞬間、シャーロックははっとして顔をあげる。それは彼にとって生きる理由になったのがモリアーティの一言だったから。でももう自分の言葉ではモリアーティを止めることはできない。また迷子の子どものような不安そうな顔になる。どうしたらこの大切な友人に復讐殺人を思い留まらせることができるか。

考えて考えて、シャーロックは落語をした。
この作品の最大の見所であり、名場面だ。

死のうとしていた自分に、生きる理由を与えてくれたモリアーティ。シャーロックはどうしても止めたかっただろうし、だから初めて出会った時のことをしどろもどろになりながらも落語にしようとする。だって面白いって言ってくれたから。生きる理由をくれたから。
自分は言葉がうまくないことを自覚しているシャーロックは、モリアーティと自分をつなぐ落語で、モリアーティを必死に止めようとした。頭をフル回転させて、必死に止めようと言葉を紡いだ。

「その噺、オチてないよ」

けれど、シャーロック思いは届くことはなかった。
モリアーティはマキの頸動脈を切った。 
正しくは、届いていたけれど、モリアーティに受け取ってもらうことはできなかった。
「自分にはダメだった」と言うように脱力して涙をぽとぽと落とすシャーロックに、モリアーティは「駄目な友達でごめん」と涙声で謝罪する。
その言葉にはっと顔を上げたとき、シャーロックの中には沢山の感情が渦巻いている。そんなことない、だめなんかじゃない。だって自分を救ってくれたのはモリアーティだから。でも自分にはモリアーティの最後の一歩をを止めることができなかった。だからせめて自分にできることとしてUSBを渡した。
実はこれ、複数パターンある。
新木さんは毎公演違った人の人生を生きるタイプの人なので、この表現や解釈も様々だ。アレクの話がトリガーになる時もあれば、謝罪がトリガーになるときもある。
呆然としていたシャーロックが謝罪をきっかけにしゃくりあげて泣き出ながらUSBを差し出すときもあるし、自嘲の笑顔を浮かべながらUSBを手渡すときもある。

このオチのない落語、これこそが舞台かぶしゃろの最大の見せ場で作品の主題だと思う。
これはシャーロックが大切な人の心に訴えかけようとして必死に紡いだ言葉たちで、ここに宿るシャーロックの気持ちはワトソンとの出会いで育まれたものだから。
シャーロックは人の感情(愛や思いやり)を形として認識していた。もちろん彼の中にはもともと感情はあったのだろうけど、認識することが得意ではない。
アイリーンの一件でワトソンから人を思う気持ちとその表現(言葉)を教わり、内面化できたのであろう。
ワトソンに出会わなければ、この、人を思いやる落語は生まれることはなかった。人のために必死に言葉を紡ごうとすることはなかった。ワトソンがシャーロックに愛情を体感させ、シャーロックを突き動かした。
人と人、他者と他者が共に生きることの核となるものが、落語までの物語とこの落語にはあると思う。
しかし、生の人生はオチがつくほど綺麗にまとまることはない。形にはめることはできない。
人の心は難しい。

マキについてまだ考えていること。
マキの物語。マキちゃんが最期に京極さんに手を伸ばしているというツイートを拝見した。事実そうだった。
そうか、マキちゃんは京極さんを愛していたのか。
ダイアナさんと保さんの真相のとき、マキちゃんは二人へ祝福の拍手をしない。思い詰めた表情であの幸せそうな空間を見て、視線を逸らす。
マキは自分を自分のまま愛してほしかったのか、それともそもそもその“自分”が何者か見つけられなかったのか。
安易にサイコパスだとかソシオパスだとかいう病名を素人の私が口にしてはいけないけれど、単純な話、アニメのマキはサイコパスだと思っていた。数多の殺人を犯してきた。そしてアレクをアレクだとわかっていながら、私欲のために嬲り殺し、その遺骸を喰らった。なんともむごたらしい極悪非道な行いだ。そして自分に好意を抱いている京極を利用して、そのデータの入ったUSBを入手しようとした。同情の余地など1ミリたりともない、残虐行為に恍惚としているただの凶悪な犯罪者だ。
では彼女(彼あるいはTheyかもしれない)はなぜ最後に京極へ手を伸ばしたのだろうか。マキの言葉通り「気色悪い」と本気で思っていたらそんなことはしないだろう。京極にトラウマを植え付けさせよう、などという余裕はもはや今際の際のマキにはない。最期に求めたのが京極、そして彼の持っている自分への愛だったのだと思う。
マキの生い立ちやバックボーンは語られていない。舞台かぶしゃろでは生い立ちにまで言及しているキャラはメインでも多くない。アイリーン、ルーシーメアリ姉妹、小林のに留まる。シャーロックやワトソンは現状に至るまでの過程であり、モリアーティも幼少期には触れられていない。
ここからは想像の範囲内。
マキはモランお抱えの殺し屋だった。殺しの依頼を受けて、殺す。もともとマキもストリート・チルドレンだったのではないかと考えた。
戸籍を持たない存在、保護者の監督がされていない子どもは足がつきにくい。独りの子どもをモランが買い、殺し屋に仕立て上げたのかもしれない。今日を生きることで精一杯であろうマキには、己のアイデンティティを考える余裕などない。自分が何者かわからないまま探し続けて生きてきたのだろう。自分の漠然とした満たされなさに思い悩んだこともあるだろう。でもマキは言葉を知らなかった。生きるために殺す術しか知らなかった。その満たされなさから、遺骸の一部を口にしたとき、何かが満たされる感覚があったのかもしれない。殺すことを依頼されても、子宮を切り取り、食べることは含まれていないだろう。それがマキの声だったのかもしれない。
マキの言葉に注目したいが、まだ私には直視できそうにない。

そしてラストシーン。
ワトソンが冒頭と同じ言葉で歌舞伎町を語る。しかしその言葉に載せられた意味は重い。
ワトソンがイーストにいる理由はなくなるが、晴れない表情。天気は晴天。
(舞台歌舞伎町シャーロックは語り手であるワトソンの成長物語でもあるので、心情と天気や時間帯など“明るさ”がリンクしている文学的な演出がある。ちなみに偽ジャックは夜、藤沢保失踪事件は夕方、切り裂きジャックは夜から朝)

人の心が難しい、と落語をするシャーロックを憐れむように慈しむように、泣きそうな顔をしながら見つめるワトソン。
モリアーティを失ってシャーロックが悲しみに昏れていると解釈したワトソンは、わんわんと号泣しながら相手の話も聞かずに「シャーロック!僕は君の助手を続けようと思う!」と切り出す。突拍子もない発言に「あ?」と素っ頓狂な返事をするシャーロックだが、ワトソンは聞いちゃいない。

「僕が!」

「君に、」

「……必要だろ?」

傲慢な太陽様である。

自分の胸を叩き、シャーロックに右手を差し出し、先程までの号泣はどこへやら、声量を落として整えた綺麗な声で、確信した笑顔で誇らしげに問う。
シャーロックはワトソンの手と表情を交互に見て困った顔をし、むっとしてワトソンの横をすり抜ける。
「冗談言っちゃあいけねぇや!」
正座をして、客席に向かって声を張り上げるシャーロック。
「あれ?」と、とられることのなかった手を一瞥してから、シャーロックの後ろ姿にやれやれと優しく笑いかけ、腕を組み(千秋楽は頭の後ろで手を組み)、したり顔で客席を見るワトソン。

「舞台歌舞伎町シャーロック、半ばでございます!」

終幕。
カーテンコールはアンサンブルさんたちがパルクールで登場し、メインキャストの面々、モリアーティの順。モリアーティが二人を迎え入れる。歌舞伎町の奥から、ごみごみとした街をすり抜けるようにしてスタスタと歩いてくるシャーロックとそれを追いかけるようにしてわたわたしながら出てくるワトソン。
主演よりも長く残る京極(と付き合わされるマキ)。このお決まりの流れも、舞台かぶしゃろらしくて最高だ。


ここまでワトソンとシャーロックの感想を中心に書いてきたが、最後に演じた俳優の二人の話を少しだけしようと思う。

新木宏典さんと鈴木裕樹さん、本当に素晴らしい俳優さんだと思う。切磋琢磨し続け、デビュー20周年を迎えた二人だからできた作品だと思う。
シャーロックが新木さんでなければ、そして、その隣に並び立つのが鈴木さんでなければ、舞台歌舞伎町シャーロックは生まれなかった。片方が違っても、絶対にこの作品にはならなかった。タイミングが違っても、この素晴らしい作品にはならなかった。

1/19に発表され、何度も解禁情報を確認し、目を疑い、友人にビンタを依頼し(未遂)、何も信じられないままアニメを観た。その時に友人に送った感想を見返したらこんなことが書いてあった。
“共演するなら板の上は前の共演くらいの距離感なんだろうなと思っていた。それに、新木さんは素直であっけらかんとしているところがあるから平気かもしれないけど、恥ずかしがり屋で意外と頑固な鈴木さんはよくこれをやるって許可出せたね!?
たぶん大人になったんだろうな。めんどくさい何かを取っ払ってでも、二人でがっつり芝居がしたいっていうのが勝ったのかな。二人のデビュー20周年を飾るのがこの作品なんだなと思うと、鈴木さんの覚悟に泣けてしまう。”

切り裂きジャックの話までを指してこの話をしていたのだと思うけれど、あのシャーロックを殴るワトソンの場面はアニメをはるかに超えるものとなった。
まさに“ズキアラ”でなければ、できない熱い芝居になったと思う。

ここから少し自分語りを含む。
私は、ゲキレンジャーでお二人を知った、永遠の新規だ。例に漏れずズキアラが大好きだ。まだ子どもで舞台には行けなかった。一度、解散宣言をされた。そのときは悲しすぎて、茶の間だったがファンを辞めた。
数年後、ひょんなことから荒木さんの舞台を観に行く機会があり、ズキアラのイベントが決まっていることを知り、ファンクラブに入った。パスポートを取って香港にも行った。だってズキアラが香港大決戦するっていうから(ゲキレンジャー夏映画の舞台が香港)。そこには、子どもの頃にテレビの向こうで見ていたズキアラがいた。ずっと二人はかわらずに友情を育んでいた。素敵な関係だなと思う。二人がご飯に行った報告をしてくれる度に、大喜びした。毎回お誕生日をお祝いし合う二人を微笑ましく思った。
2018年の10月、あの日のショックは幼い頃に解散を聞いたときと同じくらいの傷になって、今でもかさぶたとして残っている。お誕生日なのに、二人でお祝いしているのに、後ろ向きで前向きな発言。その年は主演舞台があり、とても素敵な作品で、鈴木さんのことをより一層好きになっていたタイミングであの発言だったので、本気で怖くなった。彼が俳優じゃなくなってしまうかもしれない。それは困る。だって私の人生の楽しみは、鈴木裕樹の面白い芝居を観ることだから。二人は今は別のフィールドで頑張っているが、この二人が一緒にいる空間が存在することがこの上なく大好きだ。彼が舞台から居なくなるかもしれないし、二人が隣にいることがなくなるかもしれない。そう思うと本当に怖かった。今振り返って文字にしていても、かさぶたの奥が疼く。
あれ以来ずっと不安に駆られていた。どうすれば自信を持って板の上に立ち続けてくれるか、どうすれば二人を見続けられるのか。足りない頭で考えた。変なところで必死になった。
翌年2019年、鈴木さんは荒木さんのイベントの一環として開催されたズキアラのイベントで「アラの隣に立てるズキでいたい」と話した。切なかった。きっとネガティブな意味は無かったのだろうけど、隣に立つ姿がそもそも大好きな私は勝手にちょっぴり苦しくなった。
2020年、トキめきHERO場があった。ふたりがタレントとしてズキアラとして発信してくれたのが嬉しかった。そしてカオス。
2021年、鈴木さんのイベントの時に、近いうちにズキアラはやらないのかと軽い気持ちで聞いた。きっと「荒木に言ってよ〜」とか冗談めかして返してくるんだろうなと思った。が、少し考えてから「困ったときのズキアラじゃん?俺と荒木の二人が必要だと感じた時にやるから、まだその時じゃないんだよね」と返された。ここまでいちファンに真摯に返してくれる優しさと、その頑固さが面白いなと思った。
2022年、久しぶりの共演。映像と舞台。コロナの影響で公演のほとんどが中止になり、私としてはとても悔しい結果になった。
2023年、二人が40歳。色々と現実はムカつくくらいに厳しいなと感じた。
2024年、はじめてのバディ役での共演。本当に嬉しかったし、何度も言う通り、ずっと信じられなかった。
この二人がタレントの“ズキアラ”を飛び越えて、本業である俳優としてタッグを組む。最高に嬉しかった。私は俳優としてのお二人が、それぞれ大好きだ。その大好きなお二人の共演、そして“ズキアラ”の共演。私はタレントとしてつかわれている“ズキアラ”の呼称を封印しようとした。俳優としてフラットに二人の芝居を受け取らなければ、二人の覚悟を軽んじる行為になってしまうと思ったから。
20年、紆余曲折なさそうでありそうな二人が今このタイミングで取り組む作品を、真正面から受け取らなければならないと思った。

結果として、その不粋な気遣いは無用となる。
“ズキアラじゃなければ舞台歌舞伎町シャーロックは成立しえなかった”からだ。
二人が俳優として切磋琢磨した20年、二人がタレントとして活動した20年、二人が友情を育んだ20年、その全てが舞台かぶしゃろのシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソンにはあった。
こんなにも人を愛し愛される作品にできたのは、二人がズキアラだったからだ。他の誰にもなし得ない、ズキアラだからできた作品だ。これは絶対間違いない。

この二人に出会えて、この二人の作る舞台『歌舞伎町シャーロック』に出会えて、私の人生はこの上なく幸せだ。何が何でも、是が非でも、背に腹を代えても、泥水をすすっても、全身の血を全て抜かれても、続編が観たい。
そして舞台の精度を観ると、オリジナルストーリーでも観てみたいと感じる。オリジナルストーリーでも続けられる力をこの作品の脚本、演出、キャストは持っていると思う。

しかし運営やチケットの販売方法は本当に酷かった。
悔しくて、会場に入るたびに、やるせない気持ちになることがほとんどだった。いい加減な宣伝、チケットを売る気のない先行、その結果として埋まらない客席と、その中で独り物語を始めざるをえない好きな俳優。
この作品が記念公演であったり、中途半端な作品であったり、所謂虚無舞台だったらここまで悔しくはなかった。
最高の芝居を魅せてくれているカンパニーがいるから、単純に死ぬほど悔しかった。こんなに最高な芝居を届けてもらっているのに、何もできない自分の無力さに嫌気が差した。ごめんね。

全13公演、本当に全ての公演が新鮮で素晴らしく、全てが私の人生の宝物になった。この作品に出会えて、私の人生はとても豊かになった。
最高の作品に出会わせてくれてありがとう。

ズキアラは、私にいつも生きる指針を与えてくれる。
子どもの頃に見たゲキレンジャーでは、「学び、変わる」ことを教えてくれた。大人になってから観た舞台かぶしゃろでは、「他者と生きる難しさとかけがえのなさ」を教えてくれた。
二人がいてくれたから、私の心は豊かになり、きっとこの先のより良い人生の糧になった。ありがとう。最高のヒーローたち。

余談だけど、感想を書く前に面白いなと感じたこと。
私は“ワトソンが他者を見つけてともに生きていく話”と解釈していたものの、鈴木さんが“ワトソンはよそ者”と表現していたこと。演じているご本人はあくまでも作品での役の立ち位置、対するオタクは役柄を中心とした物語。同じ現実の中にいても、現実の捉え方はそれぞれの注視しているもので異なるという面白さ。そこに他者の視点がある。

たくさんのことを考える機会をくれた。そして、この先の生きる糧を与えてくれた最強のヒーローであり、最高のバディである二人に、最大の感謝を。

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