父と本の話

私の父は、寝る前に30分ほど本を読むのが日課だった。
布団に寝転び電灯をつけ、カバーを取った文庫本を片手で持って読む。
しんとした部屋で、ぺらり、ぺらり、と時折響く紙擦れの音が好きだった。


本が好きな父は、私が子どもの頃、ゲームや漫画を反対するかわり、欲しいという本はなんでも買ってくれた。

本を読んだ後は、できるだけ早く、父に感想や見解を伝えるように言われていた。
話す内容はなんでも良い。
好きなキャラクターのこと、主人公の一風変わった口調のこと、その物語と私が重なったこと。
一言二言で終わる時もあれば、父が飲むウイスキーのグラスが空になるまで話すこともあった。


私の感想を聞いた父は、私が読んだ本を読む。
読了した日、父の解釈や感想を聞く。

父の感想は、物語に出てきた脇役の今後を創作するものであったり、全く話に出てこない第三者の視点を勝手に考えてみたり、かと思えば国語の問題に出てくるような主人公の胸の内を想像したりと様々だった。
その、父との時間は、読んだ本と同等か、それ以上の楽しみを私に与えてくれた。

私と正反対の感想を言われた時は、少し立ち止まる。
なにが父をそう思わせたのか。
なにが私をそう思わせたのか。
その答えは、本の中にある行間、句読点、挿絵、たくさんの小さな理由があることを知った。
とりわけ大きな理由は、これまで父が歩んできた、人生からくるものだったりした。
生き方で、経験で、本を読んだ後の感想が変わってくることを教えてもらった。

たまに、作者の生まれや、その物語が書かれた年代に何が起きていたかを一緒に調べた。
国交が断たれていた時代、戦争が起きていた時代、植民地となっていた時代、芸術が盛んだった時代。
そこで生きた人が、何を思い、何を伝えたかったのか。
先端に、少しだけ触れることができたような気がした。


わからない言葉の意味を、何度も辞書で引いた。
父は、自分の知らない知識を得たとき、とても嬉しそうに笑った。

2人分の知識や見解は、私の中に、ゆっくりと降り積もった。


娘が産まれて、異なる意見の受け入れ方、他人と異なる自分の包み方、知ることの大切さ、たくさん伝えたいことができた。
ただ、その全て、言葉で伝えることの難しさにぶつかる。
同時に、父のやさしさにも気づく。


3歳になった娘には、誕生日などの節目に絵本をプレゼントしている。
私が昔、父の膝に座って読んでもらった絵本、そして、娘が好きそうな絵本。

いつか、娘が文字を覚えて、ひとりで本を読めるようになったとき、同じように娘と向き合って話をしたい。
濃い目に淹れたコーヒーが冷たくなってしまうくらい、ゆっくりと。

すごくすごく喜びます!うれしいです!