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頭にこびりついていた、新生児の泣き声の話

バスの隣に座った女性が、大切そうに小さな赤ちゃんを抱えていた。
赤く、ほにゃ、とした顔は新生児を思わせる。
ふと、赤ちゃんが弱々しくも強い声をあげて、泣き出した。
その声を聞いて、忘れていた記憶が濁流のように流れ込んできた。

約3年半前、娘が新生児のころ、私の頭は常に娘の泣き声でいっぱいだった。
娘が泣いているときも、泣いていないときも。



娘を寝かしつけるのに、1時間立ちっぱなしだった。痛む身体をベッドに横たえ、目を瞑る。その途端、娘の泣く声が響いた。目を開ける。泣いている。さっき寝始めたのに、泣いている。またいちから寝かしつけをするのか。飛び起きる。横で泣く娘をあやそうと手を伸ばす。

けれど、伸ばした手は勢いをなくし、だらりとベッドに落ちる。
娘は、泣いていなかった。


水気を切った野菜。キャベツについた露が目にうつる。見ないふりをする。熱したフライパンにざっと入れた。じゅうじゅうと鳴くフライパンの黒い取手に手を添える。木べらで野菜を大きくかき回す。じゅうじゅうじゅう、その音の端で、娘が泣く声を聞いた。

ばた、と一歩前に出たところで、娘に目をやり立ち止まる。
娘は、泣いていなかった。


娘を、リビングの簡易ベッドにゆっくりとおろす。振動を与えないように腕を抜く。一瞬、娘が顔を歪めて腕を動かす。寝て、寝て、と唱える。気配を消して、娘の眠りが深くなるまで息を殺して待った。たっぷり5分待ったあと、お手洗いへ行く。足音も、ドアを開ける音も、消す。消せる音は全て、消す。一息つこうとしたところで、娘の泣き声がリビンクから聞こえた。洗った手から、水滴がばたばたと落ちた。娘の元へ走る。片方のスリッパが廊下に転がる。

どうしたの、と声をかけようとしたところで、息を止めた。
娘は、泣いていなかった。



娘はよく泣いていた。

そして、私の頭には、娘が泣いている時も泣いていない時も、常にその声が頭に響いていた。泣いていない娘を目の前に見ながら、その泣き声が聞こえることもあった。

ベビーカーで散歩をしているとき。
お風呂でシャワーを浴びているとき。
別の部屋におむつを取りに行ったとき。
炊飯器からごはんをよそうとき。

べったりと私にこびりついて、泣き声が離れないのだ。

睡眠が足りず、幻聴が聞こえていたのだろうか。
誠実な母親にならなければという、義務感があったからだろうか。
常に死と隣り合わせだという、不安がそうさせたのだろうか。
話し相手がいない心細さが、それを頭に響かせたのだろうか。

泣き声が聞こえるたび、娘と私は閉じられた世界にいるのだと突きつけられているようだった。



その泣き声にすっかり慣れた頃、ぱたりと聞こえなくなった。

歩く楽しさに目覚めた娘は、これまで泣いていた時間を「動く」ことに費やすようになった。
「泣く」ことが減った。けれど、「動く」ことが増えると、別の心配事だって出てくる。
慌ただしく駆け抜けた日常に紛れて、すっかりその声は消えたのだ。


3歳になった娘が泣く声とは少しちがう色をした声。
あの声の終わりはいつだったのだろう。

バスで出会った泣き声の残響と少しだけ重なって、いま、薄く、耳に残っている。

あんなに悩まされていた声を、いまはただ、消えないようにここに残す。



すごくすごく喜びます!うれしいです!