映画と私と、私
田舎のショッピングモールの上階の端にある、寂れた映画館に入った。そこからさらに一番端のシアターを目指し、劇場の一番後ろの席に座った。
約一年前の春に、「少女は卒業しない」という映画を観た。
昨年、この日の体験について記事を書いた。それから、時間の経過によってあの日の記憶は変容し、当時はふわふわと浮いていた感情に輪郭が与えられた気がしている。
嘘をつけない自分の感度を信頼していい。
だから、映画のために過ごしたあの日の記憶に意味を与えなくていい。
年々日常的な冒険をしなくなる私は、何事にも意味づけをしようとする。
行動に目的が伴うことは決して悪くない。ただ、いつの間にか「悪いことではない」という安心感に依存していることに気が付いた。
映画を観た日、3月31日の思い出もそうだ。
大学を卒業した春の一人きりの静かな時間と、廃校になる高校の卒業式という鮮やかな時間に対して、何らかの有意義な意味を見出そうとそれから数日はもやもやと考え込んでいた。
慣れない路線で耳にする地名やショッピングモールまでの田んぼ道、映画の後のごはんの味、便箋に書いた作品の感想、そのいずれにも伴っていた楽しさと寂しさに、その時間を過ごした瞬間に気が付いていた。
ただ、私はそこに寂しさを感じていることを認められず、明るい意味を与えようとしていた。そして、この日に何の意味付けもできないことに落ち込んだのだ。
当時を懐かしいと思える程度には時間が経って、あの日の私は寂しくてふらふらしていたようだ、と3月の末を記憶している。寂しいから、電車も田舎道も優しく感じられ、カフェで過ごす時間が心地よかったのだ。
もっとその日に感じたことに目を向ければよかったのだ。
そんな感傷的な記憶の存在を、まさに「少女は卒業しない」を観てよく理解したはずなのに。
人は、少なくとも私は、いつになっても過去の記憶を振り返ることで当時を肯定していくのだろう。
過去や未来と繋がっている今を理解できないのは不安でもあるが、自分の感度から目を背けなければ全ての記憶を受け入れられるはずだ。
映画を観て、映画を観る自分を見つめることができた。
映画の外側もまた、いつかの物語になることができた。
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