作られるべき映画

なんでもいいから「映画を撮ってみたい」っていう願望はだんだんと変化し、今は「作られる意義がある映画を撮りたい」という願望になった。

映画を撮る行為というのは、とても我儘で傲慢な業に溢れた行為だなと思う。
誰にでも創作する権利はあるけど、とくにライブアクションの映像作品は特性上、"人間を使って創作する業"の側面が強すぎる。
(スピルバーグの『フェイブルマンズ』はスピルバーグの天才っぷりの他に、こういう"業"についても描かれていたのがめちゃくちゃグッときた)

映画はきっと機材さえ確保出来れば誰でも取れてしまう。でも、いつも自分がやる時ビビっちゃうのは本当に撮られるべき価値がある映画なのかってこと。お金とかのことももちろんそうだけど、人々の忙しすぎる生活的にも。

ここまでの業を背負って(人を巻き込んで)でも、それを跳ね返して有り余るほどの映画ってなんだ。
これだけ面白いものが溢れてる時代に、わざわざ映画としてお金を出してでも、作ることを望まれる作品ってどんな作品だ。
それだけの意義を生み出せるだけの作品って今どれだけあるんだ、誰も見たことない映像なんて今更残ってるのだろうか。
とか、やっぱり日々考えてしまう。

この前山戸結希監督の『溺れるナイフ』を観返した。
山戸監督の作品はいつも"たたかっている"って感じがして、いつも頭を殴られた感じがする。

山戸監督は確実に抑えた演出も出来る人だけど、『溺れるナイフ』の冒頭のタイトルバックのモノローグで主人公が真っ直ぐに作品の想いをぶちまけてしまう所が特に大好きだ。

『その頃わたしはまだ15で。すべてを知ることができる。すべてを手に入れることができる。すべてを彼に差し出し、共に笑い飛ばす権利が、自分にのみあるのだと思い込んでいた。私が欲しているのは体を貫くような眩い閃光だけなのだ。目が回るほど。息が止まるほど。震えるほど』

『溺れるナイフ』のタイトルバックでの夏芽のモノローグ

溺れるナイフにはこのセリフに集約するような傲慢さと初期衝動が詰まってる。冒頭からとにかく前のめりで、抑えきれず、真っ直ぐ暴れ回っている感じがどうしようもなく愛おしい。

この前のめりな初期衝動。

いつか、お金と労力をかけてでも誰かに観てもらいたいと心から思ってもらえる作品。
そのために一生失敗し続けても良いし、きっと一生失敗できるだけの価値があるなと思う。

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