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恋愛と芸術にまつわる怪文書

 今回は、たぶん病んでます。読みたい人だけ読んでください。どんがらがっしゃん。

 昔、結婚すると勝手に思い込んでいた相手からの、お互いが愛だと思っていたものを失った結果、俺は己の存在意義を芸術の中にしか見出せなくなった。芸術家として、これはこれで幸せなことかもしれない。平凡な家庭を持つような人生は俺は歩めない。そんな能力もないし、そんな意志もない。だからこれで良いんだと思える。過ぎ去った思い出はまるで嘘のようだ。最初から無かったかのように思える。
 一緒に暮らすなんて事はお互いが幻想を持ち寄っているに過ぎない。彼女が俺の狭い世界の中で、一番素敵な人だった時もあったけど、そんなものも思い込みに過ぎない訳で。簡単に言えば俺が愛想を尽かされただけなんだけど、それとは別に、相手の醜い内面を本当は軽蔑している自分に嘘をつき続けるのは、自分が疲弊するだけで、結局一目惚れした相手とは上手く行きやしないんだなーと当たり前の結論に至った。
 俺の場合はどっちもどっちだったけど、恋に恋してるガキには結婚や共同生活なんてのはどだい無理な話だ。ガキには共同作業が出来ない。相手を喜ばせたい、満足させたいと思うのも、結局自分がそのことで満足したいだけで、精神的なオナニーみたいなもんだ。
 俺は一生ガキで良いと思ってるし、自分が満足して死ねれば良いと思ってる。良い年こいたガキに必要なのは諦めではなく開き直りだ。

 さっき少し芸術の話題をしたけど、芸術ってのは全て一方的なもので対話ではない。芸術家は全員ガキだ。散々やりたいようにやって、これが俺の芸術でござい、と世の中にのたまう。壁に向かって話しているのと同じだ。対話の出来ない悲しい連中が芸術家だ。芸術の持つ、その孤独な性質に、俺は強烈に惹かれている。
 一般的に、芸術の価値とは、思うに、その値段と等価であって、売れてない奴の作るものは所詮価値が無い。史上最高の芸術家はダ・ヴィンチとピカソだなんてことは当たり前のことだ。何というか、即物的な感じがして俺は好きだ。ガキでも才能があれば金を稼げる。いい話じゃないですか(とてもじゃないが正式名称を口には出せないパンクバンド、AxCxのアルバムタイトルより)。
 つまり、芸術家の創作物あるいは商品というのは非社会的なものでありながら、同時に社会的だ。ガキは平気で、その時の気分で自己矛盾を厭わないので当然とも言える。
 全ての映画は、対象をフレームに収めた(あるいはフレームに収めなかった)時点で、独善的なお人形遊びに過ぎない。だから、全ての映画は芸術だと言える。芸術家だから独善的なのではなく、独善的だから芸術家なのだと思う。まあこんな事は卵か先か鶏が先かという事なのかも知れないが。
 じゃあお前、音楽のライブはどうなんだよ、コールアンドレスポンスとかあるじゃんよ、と言う人もいるかも知れない。しかしどうだろう。ステージの上でスポットライトを浴びる音楽家と、客席やフロアにいる観客の間に発生するものは果たして対話だろうか。
 あるいはパフォーマンスという言葉でこれを言い換えても良いかも知れない。パフォーマンスを鑑賞される者、鑑賞する者という構図は、同時に牧師と信者の関係に準えても良いかも知れない。牧師は独善的な教義(これはキリスト教批判ではない)に基づいた説教よって信者をトランス状態に導く。両者の間で発生するのは、一方的な関係だと言えないだろうか。

 まあ、俺が言いたいのは、俺は芸術家で、刹那的な恋愛しか出来ない自分勝手なガキだって事だ。これで何が悪い、という開き直りが大事だ。俺はこうやって生きていくしかないと分かっているし、実際にこうやって生きていくと決めた。
 経験を通して妥協点を下げていく事が大人になる事なんだと思っていたが、そうではない。ガキのまま進み続けて、反省せずに図太くなっていくのが、俺の人生なんだと思う。
 誰かパトロンになってくれや。

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