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第9週:ヴァ=イェシェブ(住んだ)

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基本情報

パラシャ期間:2023年12月3日~12月9日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記37:1 ~ 40:23
ハフタラ(預言書) アモス書 2:6 ~ 3:8
新約聖書 マタイの福音書 1:18 ~ 25/ ヨハネの福音書 19:16~27
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

ヨセフから見る、メシアのパターン
ヨセフ・シュラム

ヨセフ・シュラム師
(ネティブヤ・エルサレム)

父祖たちからヨセフへ

今週のパラシャ(通読箇所)では、中心人物に変化が見られる。今まではアブラハム・イサク・ヤコブという、家長・父祖たちが主役だった。しかしここではヤコブの家族のなかから新しい主人公が紹介され、ここから創世記の終わりまで彼の人生が物語の舞台となる。それがヤコブとラケルの間に生まれた、ヨセフだ。
このようにスポットライトがヤコブからヨセフに移っていくのだが、彼はヤコブの息子・家族の一員ではあるものの、絵に描いたような英雄・ヒーローではない、アンチヒーローとも言える人物だ。
 
パラシャの初めにある箇所を読んでみよう。 

これはヤコブの歴史である。
ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。

創世記 37:2 

節の出だしとは対照的に突然ヤコブが物語の中心人物ではなくなっており、これは考えてみると奇妙だ。私たちはヤコブの人生の全ての出来事を飛ばし、17歳の甘やかされて育った末から二番目の息子ヨセフの物語に入っていく。
ここで飛ばしているのは、ヤコブだけではない。ヨセフの前に生まれている10人の息子に関しても飛ばされており、これ以降この10人がスポットライトを浴びることはほぼない。このヤコブの11番目の息子(ほとんど末っ子と言ってもいいだろう)が、創世記の終わりまで主役になるのだ。
 
動かされない万物ですら動かしてしまう原動力は、全能の神ご自身のみにある。
ヨセフはヤコブの最愛の妻ラケルの長男であり、ラケルはイスラエルの母親たち(サラ・リベカ)と同様、最初の息子ヨセフが生まれるまで、不妊で子どもを持つことができなかった。そして事実、ラケルは次男ベニヤミンを産んだ際に亡くなっている。 

ヨセフ=アンチ・ヒーロー

聖書におけるヨセフの物語には、いくつかの繰り返されるパターンがある。まずヨセフは物語の最初の段階では、英雄ではない
ヨセフはアンチ・ヒーロー的とも言えるだろう。 

彼は兄弟と共にいた時には最年少であり、兄たちは彼を憎んでおり両親さえ彼と彼の夢を理解していなかった。特に父親であるヤコブはヨセフの夢をすぐに理解してそのメッセージを受け入れ、彼に自身を投影すべきだった。しかし、ヤコブは次のような警告をヨセフにした。  

ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。
「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」

創世記 37:10 

ヨセフの兄たちから(そして部分的には父であるヤコブから)の憎しみと疎外・孤独憎しみと疎外の背後には、アブラハム・イサク・ヤコブの神が居られたことを、私たちは知っている。
 
そして問題を引き起こした第二の要素は、ヤコブが他の兄弟たちよりもヨセフを愛し、特別な注意を払い優遇していたことだ。彼は多くの色の特別な長服を与えた、と書かれている。 

ベニ・ハサン壁画
縞模様の色鮮やかな長服が見られる。

カナンからエジプトに下る、ヘブライ人と考えられている「ハビル」というグループを描いた古代エジプトの絵を見ると興味深い。この壁画はベニハサンと呼ばれており、その中にロバなどを引き連れた隊商・キャラバンが、様々な色の縞模様の服を着ている。この絵はテル・エル・アマルナ(アメンホテプ4世が新しい首都とした)の近くにある、エジプト王家高官の墓の中から見つかっている。
おそらくヨセフがヤコブから与えられていた長服とは、このようなものだったのだろう。

父の行いは子たちへのしるし 

再会するヨセフ(左)とヤコブ(右)

ヨセフと兄弟たちの物語には、主に三つの聖書にも通ずる古典的なパターン・要素が見られる。

  1. 頂点から底辺への転落(富から貧困へ)

  2. 下から上への上昇(成り上がり)

  3. 壊れた関係の修復・180度の回復(憎しみから思いやりへ) 

この3つの要素が、ヨセフの物語を色鮮やかなものにしている。ヨセフと兄弟たちの物語はクラシックなドラマのように進み、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を連想させる。
 
兄弟たちからのヨセフに対する憎しみ・軽蔑について私の心に浮かぶ疑問は、特にキリスト教の国々と教会が潜在的に持つ、彼らの兄弟イスラエル・ユダヤ人に対する高慢な態度と憎しみであり、それは一種預言的な鏡だ。そしてそんなヨセフ物語と同じパラダイムが、イェシュア(イエス)の物語にも見られる。

 さてユダヤの伝統・聖書解釈には、
「父の行ないは子たちへのしるし」
というものがある。
イスラエルの初代首相であるダヴィド・ベン=グリオンは、ユダヤ史をこの原則を使って解釈し、こんな言葉を残した―

過去からの光は、未来への私たちの道である。

ダヴィド・ベン=グリオン 
初代首相ダヴィド・ベン=グリオン

ベン=グリオンが言うように、国家・民族としての私たちの歴史は、ヨセフ物語にとても似ている。
ユダヤ人・イスラエルは世界とその全ての国に仕え、何が正しく/間違っているのか、何が正義で何が公正でないか、何が祝福で何がのろいであるかについてなど、その規則と規制を提供するための聖なる民/祭司の民族として選ばれた。
 
このヨセフとイスラエルのパラダイムの終わりは世界のほとんどに対してはまだ見えるものではなく、イスラエル国家のユダヤ人の大部分でさえこれについては見えていない。世界のほとんどにとって、過去は明らかだ。私たちイスラエル民族は、何世紀にも渡って偽りの非難を受け、善を行ない、人類を祝福し成功したことによって憎まれてきた。 

イェシュア(イエス)とヨセフ

例えばイスラエルから出た人類にとって最大の祝福は、ベツレヘムで生まれた1人のユダヤ人だ。しかし彼は、非嫡出子として非難され、虐げられた。彼は故郷であるイスラエル、共に育った同胞のユダヤ人、そして自身の村の人々によってすら拒絶された。
その後、このユダヤ人は当時のユダヤの霊的権威と政治当局によっても拒絶された。まさにヤコブの子ヨセフが兄弟たちに拒絶されたように、だ。
 
そしてイスラエルの敵はこの(同胞には虐げられた)ユダヤ人を受け入れ、彼らの救い主・神とした。こうして彼の兄弟たち(=ユダヤ人)の憎しみは、裏目に出たのだ。しかし、未来は約束されておりそれは確実だ― 拒絶された者が王になる。後の者が先になり、尾が頭になる。
 
これがヨセフとイェシュアの物語の、本質的な真理だ。イェシュアの頭にあったいばらの冠は、ダビデ王の冠だ。それは王の王、主の主。すべて肉なる者は彼を拝し、彼の前にひれ伏し、モーセの歌と子羊の歌を歌う。
 
世界のすべてのユダヤ人と、世界中のすべてのイェシュアの弟子は、創世記37章から最後までのヨセフの物語を年に一度は読み、ヨセフの置かれた場所に自身を置いてみる必要がある。
 
まず、神の愛を体験し、ヨセフの色とりどりの長服のように、救いの外とうを身にまとう。
第二に、ユダヤ人とイェシュアの弟子はすべて、イスラエルの預言者が語り書いたすべてのみことばと約束に立ち、人々の拒絶・憎しみと迫害を受ける覚悟をする必要がある。
 
ユダヤ民族とその王の終わりの時、自身の兄弟によって拒絶された王は、最終的にユダヤ民族を含む世界の救い主として認識される。ヨセフの兄弟たちは自分たちがしたことが悪いとは知っていたので彼を恐れたが、自分の弟が救い主となり、悪いこと(だと思っていたこと)が善いことになったことについては理解していなかった。
 
これがヤコブの息子ヨセフとその兄弟たちの物語だ。
そしてこれはイェシュアとイスラエルで起こったことへの鏡であり、このストーリーの終わりはまさに歴史の終わりを映し出している。メシア・イェシュア/イエス・キリストは自分の兄弟(同胞)たちに拒絶され、憎まれた。まさに、ヨセフのように。
そしていつの日か王の王として立つとき、兄弟であるユダヤ人たちは彼を恐れるだろう。しかし彼は、世界中のユダヤ人を憎む人々に対して「部屋から出て行け」と言われ、その兄弟にこんな言葉を掛けられるだろう。 

ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、
「皆を私のところから出しなさい」
と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。
ヨセフは兄弟たちに言った。
「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」
兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
ヨセフは兄弟たちに言った。
「どうか私に近寄ってください。」
彼らが近寄ると、ヨセフは言った。
「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。

創世記 45:1~4 

このシーンは、歴史の終わりに再び繰り返される。

兄弟たちと再会・和解するヨセフ

イェシュアがシオンの山に立ち、イスラエル、世界そしてすべての弟子たちに
「私はあなたの兄弟、イェシュアです!」
と言うだろう。
ユダヤ教徒もキリスト教徒も、泣き叫んで抱き合い、接吻し合って互いの罪と拒絶し合った過ちを認め合うだろう。そして拒絶によってできた深い谷は、裂け目の両側にいる全ての人による悔い改めの涙で満たされることになる。
 
今私たちにできることは忍耐と愛をそれぞれに置かれた場で示し、イェシュアがイスラエルにこう言われる日を待ち望むことだ。
「私はあなたたちの兄弟イェシュアです。
あなたがたは計り考えた悪いことは、神の恵みにより良いことへと変わり、世界全体の救いとになったのです!」
 
皆さまに、祝福のシャバットがあるように。
シャバット・シャローム!

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