見出し画像

第34週:コラフ(コラ)

基本情報

パラシャ期間:2023年6月11日~ 6月17日
 
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 民数記 16:1 ~ 18:32
ハフタラ(預言書) Ⅰサムエル 11:14 ~ 12:22
新約聖書 Ⅰテモテ 2:14 ~ 3:9
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

コラにならないように
ヨセフ・シュラム 

ヨセフ・シュラム
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャ(通読箇所)の名前にもなっているコラは、トーラー(モーセ五書)の中では悪名高き人物で、さらに新約聖書の中でも彼のしたことがヒントになった。モーセやアロンに対する反抗、そして神自身に対する反抗だ。

前のパラシャの最後、房(ツィツィート)に学ぶ 

(ourancientpaths.org より)

先週のパラシャ「シュラフ・レハ」では、約束の地に送られた12人のスパイについて分かち合ったが、そのパラシャはこのように終わっている。 

37主はモーセに告げられた。
38「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。39その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。
40こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。41わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。」

民数記 15: 37~41

この箇所は、今週のパラシャで起ころうとしているコラとその一味の反抗に対する、序幕・プロローグだ私は考える。 

神がモーセそして私たちイスラエル民族に、着物にふさ(ツィツィート)をつけるようにと告げている。
あなたは、「なんて変な習慣だろう」と言うかもしれない。服の四隅にーつずつふさをつけ、そのふさには青い糸が付いている。古代において青色は非常に希少・入手困難であり、英語のある訳などでは紫色となっているが、ここに明記されている色はイスラエルの北部海岸、主にレバノンの海岸の貝殻から取れるもので、貝殻を煮ると出る色だ。そのままだと赤いが、煮ると青くなる。とにかく、どうしてそんな変わったものを着なければならないのか?

実はエジプトの貴族が、それに似たものを身に着けていた。カルナック、ルクソール、コム・オンボにある神殿の壁、や古代エジプトの遺跡などでそれを見ることができる。貴族階級のしるしだった。
しかしこの箇所では、主の命令を思い出し、みだらなことや自分の心の奔放さに従って歩まないようにするため、という霊的な理由がハッキリと語られている。 

預言者エレミヤは17:9で、人の心ほど堕落して汚れたものはないと言っている。
近年の医学界では、人間の心臓に豚の心臓を移植しようとする試みもあった。AとBどちらが汚いのか、現代人はきよめ・汚れの観念を失いつつある。しかしトーラーは、そして預言者エレミヤも、人には「心への割礼」が必要だと言っている。「心の割礼」はモーセの律法に二度現れ、新約聖書にも、ヘブル人への手紙にも出てくる。 

この「ふさ」は、私たちが(自身の心を含む)みだらな心に従わないよう、そして私たちが誘惑に陥る強い傾向があることを思い出すためのものだ。人には何か思い出させるものが必要だ。例えば結婚していることを思い出させるために、私たちは結婚指輪を着けている。既婚者としての地位には、義務そして特定の法律や責任が付随する。
指輪と同様イスラエル人、そして今日のユダヤ人は、自分が誰であるかを思い出し、誘惑に陥らないように、神の存在を身をもって常に意識するため、このふさを付けている。 

イスラエルを旅行すれば、必ず正統派ユダヤ人のズボンからふさを見ることになるだろう。反ユダヤ主義が高まっている時期や場所では、迫害の恐れもあるためズボンの中に隠したりもしている。しかしイスラエルでは、彼らはそのまま全部外に出し、ぶら下げている。

エルサレム旧市街 ユダヤ人地区のユダヤ教徒たち
(messianicbible.com より)

そして祈るためにタリートという衣/ショールを身に付けるとき、この四隅にもこれらのふさがついている。私は父から受け継いだタリートを持っているが、それにはふさがついていなかった。父は1度もそれを使わなかったため、私は新品のタリートを受け取った。父の死後、私は新品の状態だが大切な形見であるタリートを受け継ぎ、レバノンの貝殻から取った色で染められた青い糸でのツィツィートをつけた。
 
 
今回はパラシャが主題なので触れるだけにとどめるが、これを考えながらぜひ長血を患った女性が「主の衣の裾・ふさ」を触れたエピソードを読んで頂きたい。ここでイェシュアが付けていたのは、このツィツィートだからだ。

コラたちは人の上に立つ者たちだった

モーセに何度もたてついた、イスラエル民族
(9世紀中頃の写本より)

さて、パラシャに話を戻そう。「コラ(フ)」は最初に引用した箇所の直後、16章から始まる。私が15章の最後を引用したのは、私たちが自分が何者であり、自分の仕事・任務を思い起こすために与えられたツィツィートが、コラたちが起こした罪に繋がって来るからだ。

1レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。

民数記 16:1~2

ここでは、以下のポイントに着目すべきだ。

  1. 反乱を起こしたコラたちは指導者たちだった。

  2. 彼らはただのイスラエルびとではなく、由緒ある家柄の血統だった。エジプトから出てきたイスラエルの中の、エリートだった。

彼らはただの誰かではなかったのだ。
 
人間の反乱の歴史の中で、それがフランス革命であろうと他の革命であろうと、しばしば反乱を率いたのはエリートたちだった。そしてここでも、コラと彼の一味はエリートであり、会衆の指導者・代表者であり、名の有る人々だ。名の有るとは、よく知られ尊敬を集めてもいる。そんな有名な人々・名士たちが、モーセとアロンに反旗を翻したのだ。 

彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。
「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」

民数記 16: 3

言い換えるならばこうなる―
私たちは民主主義者だ。誰があなたをイスラエルの陣営のトップにしたのか。
あなたは自分の権威や仕事を独占することなく、共有・割り当てイスラエル全体に分けるべきだ。私たちはみな聖く、賢く、神からのトーラー(教え・掟)を知っている。 

4モーセはこれを聞いてひれ伏した。5それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。
「明日の朝、主は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。
6こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、7明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。
レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」

民数記 16章

コラをはじめ反乱を起こした多くが、モーセとアロンと同じレビ人の部族の出身であることに注目しよう。
彼らの仕事は、幕屋に仕えることだった。そしてモーセは、「オーケー。牧場の囲いで正午に正装して来なさい。我々はそこで会おう」と、西部劇の決闘前のようなセリフを発している。 

8モーセはコラに言った。
「レビの子たちよ、よく聞きなさい。
9あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。10こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。
それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。」

民数記 16: 8~10

「あなたを神自身に近づけた」という表現は、同時に「あなたを神ご自身に(いけにえとして)捧げた」という意味にもなる。「ヒクリブ(הקריב)」という動詞は、近づけるといけにえを捧げるという、2つの意味を持っているからだ。

主はあなたたち(コラたち)をご自身の近くに置かれた(ヒクリブ)。
あなたたちはすでにレビ人なのに、
祭司(コハニーム)にまでなりたいのか。 

最もモーセを傷付けた言葉

「乳と蜜の流れる地」の蜜は、ナツメヤシからできたシロップだとも考えられている。
(timesofisrael.com より)

そして物語は続いていくー

12モーセは人を遣わして、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。
「われわれは行かない。13あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。」

民数記16:12~13

モーセはこの非難に対して、嫌悪感を抱いただろうと私は確信する。これはモーセに対して濡れ衣を着せるというだけでなく、神の約束をいやしめ・冒涜するものだった。イスラエルに与えようとされているカナンの地を、神は「乳と蜜の流れる地」と言った。わざわざその言葉を、彼らが奴隷で自由のなかったエジプトに対して使用したのだ。

彼らは神の聖なるもの、神の聖なる約束を取り上げて180度変え、それらをエジプトの地に投影させた。この行為は、ひどく、非常に忌まわしいものだった。

そして「われわれを治めている/君臨している」という言葉は、モーセが一時エジプトを将来治め・君臨する立場である王子だったことへの、あてつけだった。

― 元エジプトの王子が、今度は私たちの王子になりたいのか?
しかもあなたは、私たちを乳と蜜が流れる地に連れても行かない。
私たちは、あなたの手には乗らない!―

こうして彼らは来ることを拒否し、悔い改めのチャンスを失った。 

モーセとアロンに対するこの非難は、非常に深刻だ。彼は本質的に、モーセとアロンの権威を全否定し、2人を嘘つき呼ばわりしている。そして彼らは、なぜ荒野でさらに38年を過ごさなければならなかったか、その理由(がイスラエル側にあること)を覚えていない。
先週のパラシャで12部族のリーダーが持ち帰った悪い報告のことは、微塵も覚えていなかった。 

さて、ここからモーセは激しく怒り(16:15)、更なる悲劇が引き起こされて行く。しかしモーセは、神とこのようなやり取りをしている。 

主はモーセとアロンに告げられた。
「あなたがたはこの会衆から離れよ。
 わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」
二人はひれ伏して言った。
「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。
 一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを下されるのですか。」
主はモーセに告げられた。
「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」

民数記 16:20~22

ここでモーセが神をなだめるために発した「一人の罪人のために、全会衆に怒りを下されるのか」は、アブラハムがソドムについて神との議論の際(創世記18章)に言ったセリフとリンクしている。少数の人が罪を犯したのに、すべての人を罰することは義なる神としてできない。
そこでイスラエルの子らは、コラ(会見の天幕の入口)とダタンとアビラムの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。 

コラたちの罪から学ぶべきこと

さて、コラたちが犯した最大の罪は何だったのだろうか。
その答えが、この聖句の中にある― 

モーセは言った。
「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。
しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく吞み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」
モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。

民数記 16: 28~31

主のしもべたちを拒むことは神自身を拒むことと同じであり、コラたちはモーセを通して神自身を拒み、否定したのだ。

この原則は、新約聖書でも見られる。イェシュア(イエス)は神によって遣わされたひとりごであり、イェシュアを拒むことは神自身を拒むことだ。

そしてこの原則は、世界のあらゆる国家において適応される。遣わされた使者は、そのつかわされた場所においては、差出人と同じであり。そのしもべの権威は彼自身持つ権威ではなく、彼を遣わした人が授けた権威だからだ。
例えば大使館で考えてみよう― イスラエルの地において在イスラエル日本国大使は、日本政府そしてその元首である総理大臣から権威を授けられており、この全権大使の言葉は日本政府・首相の言葉と同じものとして扱われる。 

新約聖書にはイェシュアについて、天と地の全ての権威が与えられている、とある。これにもこのパラシャ(そして大使という)同様の理論が当てはまり、イェシュアはあらゆる点で遣わされた神と同等になる。
コラたちはこの原則を踏みにじったため、罰を受けたのだ。 

こうしてイスラエルは、この教訓を学んだ。
そして21世紀を生きる私たちもまた、同様にコラの教訓から学ぶ必要がある。神の聖さや神の誠実な愛、そして神と神によって遣わされた者の権威などを、軽んじたり・(火遊びをするように)遊んではいけない。
そうすればコラたちを通してイスラエルに下ったように、大きな災いをもたらすだろう。
 
イェシュアの御名において、このパラシャから大いに学びたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?