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第6週:トルドット(系図・歴史)

(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)

基本情報

パラシャ期間:2022年11月3 ~11月19日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記25:19~ 28: 9
ハフタラ(預言書) マラキ書1:1-2:7
新約聖書 ローマ9:1-31
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

トルドットを解説ー

トルドットとは「歴史、系図、生まれること」という意味だ。アブラハムの系図の時(創11章)は、ノアの子セムまでさかのぼっているのに、イサクの系図(創25:19~21)は二世代だけしか書かれていない。これは何故だろうか、いくつかの理由が考えられる。

  1. アブラハムの系図には、彼が現れるまでは先祖全員が偶像崇拝者だった。そこでここではイサクとリベカという『今』に焦点が当てられている。トルドット=系図は「生まれること」に関連した言葉だ。そしてアブラハムとサラの死後最初に出てくる「イサク(単独)の物語」は、リベカが不妊の妻だと分かり、神に嘆願したというエピソードだ。リベカに子供が出来ないということは父アブラハムからの契約・約束が危機に瀕している、ということであり、この「トルドット」という単語は読者をハラハラさせるものになっているのだ。
    これは、神による人災の救済・贖いのプランが危機的な状況にあることも、意味している。

  2. 創世記11章のアブラハムの系図が詳細に記されているため、重複している部分はここ25章では省略されている、というシンプルな理由だ。 

新約聖書もトルドット・系図で始まる

中世のアダム・イヴの系図

系図・トルドットのもう一つの不思議な使われ方は、マタイ 1: 1のイェシュアの系図に見られる。

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

マタイ1:1

これは創世記 5:1からの引用だ。
創世記 5: 1 は最初の人アダムの系図、しかしアダムは両親がいないので系図を書くことはできない。土から造られ命の息を吹き込まれ、父である神ご自身から直接生まれた。なぜ聖霊は、マタイの福音書をアダムの系図から始めさせたのか?

答えは簡単、かつ重要だ。それはマリアが男性の介入なしに、聖霊によって身ごもったことを告げるためだ。それは不思議であり、幻想的・非日常的であり、理解するのが困難な話だ。しかし全能の主、この天地を造られた方、土に息を吹き込み命を造られた方のわざ。それを悟らせるためだ。そのため、マタイによる福音書はトルドット・系図で始まっている。

命は神の賜物で人間のものではない

この世に起こる事は何一つ独立して起こる事は無い。始まり・創世記から終わり・黙示録まで、一直線につながっている。
創世記25章のイサクの嘆願の後、神はリベカの胎を開かれ、双子が生まれた。エサウとヤコブだ。これは自然に起こった赤ん坊の誕生ではなく、超自然的な誕生だ。まさにアブラハムにイサクが与えられた時のような、奇跡である!!

聖書を見ると、サラも不妊の女だったが、90歳で子を産んだ。そしてイサクの妻リベカも不妊の女だった。そして次の代のラケルも不妊の女だ。不妊の女性が息子を産むということで、神がアブラハムの系図というプロジェクトに、直接的に介入しておられるのがわかる。神が歴史をご自身の手で計画し、創っておられるのだ。アブラハム一族の女性たちが一様に不妊だったのは、神の聖霊によるイェシュア降誕の壮大な舞台準備なのだ。 

神が歴史を作られる

2人が結婚したのはイサクが40歳、リベカが18歳の時だ。イサクはずっと年老いておりどちらかというと地上的な性格だ。リベカは若く、行動的で実行力があった。預言的性質を持ち、双子の我が子の将来を見ることができた。そのために積極的に行動し、その結果はアブラハム・イサクへの約束が成就されることにも繋がっていった。そして、そのリベカの行動を神は非難なさらなかった。だから私もリベカの行動を、非難はしない。
 
リベカは、妊娠中に神の言葉を聞いた。神の言葉を聞くという事は、神がご自身を明らかにされたということだ。だから彼女は「女預言者」である。

ニつの国があなたの胎内にあり、ニつの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。

創世記25:23

この双子の預言のメッセージは、現在進行形で続いている!!
その終わりはどうなるか、預言によってわかっているが、まだ実際に見えて来てはいない。これはいまだに進行中の預言である。

ユダヤ人が約束の地に戻ってきているのは、19世紀終わりのシオニストたちの働きだけによるのではない。これは、律法の書の中に何度も何度も繰り返されている預言の成就なのだ。その中のひとつは、オバデヤ書17-21 だ。この預言の成就は、現在の世界状況に現れてきている。これまた、現在進行中の預言の成就だ。

イスラエルの地のエサウ・イシマエルの子孫であるアラブ人の状況を見ると、彼らは同胞である民族・民に対して、何百万人もの大量殺人を歴史的に行ってきた。また経済的にも、多くが破綻している。まさに預言の通りなのだ。 

エサウとヤコブ

聖書からわかる事は、エサウは「巧みな猟師、野の人」で、ヤコブは「穏やかな人となり、天幕に住んでいた」という情報である。(創世記 25:27)

エサウは野に生きる屈強な男。獲物を追ってユダヤの地やべドラムやヘブロンあたりまで行き、外の世界を見てよく知っており、その途中で、猟のテリトリーなどで他の人々と争うこともあっただろう。エサウはそういう世界で生きていた。

ヤコブは「天幕に住むもの」だった。家にいて満足している人だった。また家にいるという言葉は律法の書を学ぶという事でもある。祖先のセムや、彼の曾孫エベルの事などを学んでいたのだろう。

また、その同じ言葉が使われているのは創世記 4:20 、アダの子ヤバルの箇所だ。そこでは「ヤバルは天幕に住む者となり、家畜を飼う者の先祖になった」とある。つまり、天幕に住む者=羊飼いのことだ。ヤコブが倫理観のある良い羊飼いだった事は、後の出来事でよくわかる。ラバンがヤコブに自分の羊を世話させるため、レアとラケルのことでヤコブを騙してまでも、彼を手放そうとしなかった事をみても、羊飼いとしてのヤコブの才はよく分かる。

そんな猟から帰った空腹のエサウが、そんなヤコブの赤いスープを激しく欲した時、ヤコブはこう言った。

「スープをご馳走してもいいが、代わりに何か支払ってくれ。あなたの長子の権利はどうか?」
「長子の権利など、今の私に何になろう。自分は屈強な男だ。自分のことは自分で面倒がみれる。老いた父親の遺産など、自分は必要ない。今は腹が空いているのだ。」
「いらないのなら私がそれらをもらおう。では、スープをあげよう。」

このように、エサウは長子の権利を軽く見ていた(創25:34)。 

祈りの必要性について

今本当に必要なのは、聖書を端から端までを信じるイェシュアの本当のビリーバーたちが、祈ることである。そして約束の地に住むイェシュアの弟子たち、イスラエルの国全体のため、そして世界中のユダヤ人のためにも祈りが必要だ。

なぜイスラエルが重要なのか。この世をとても愛されている神が、ご自身の独り子イェシュアをこの世に送り、イスラエルへの約束を守るために、私たちのために送られたからだ。皆、神と共にいる必要があり、またイスラエルと共にいる必要もある。

黙示録に書いてあるように、歴史最後の舞台はエルサレムと、その幕開けの時から私たちにはっきりと知らされている。その時には新しい天と新しい地が造られる!! 私たちはそれがいつ、どのようにして起こるかを知らないだけなのだ。 

私たちはノアの信仰に習おう。ノアは地上が乾いているうちに箱舟を作り、何も知らないまま従順に従った。そしてそれが、自分と家族のみならず、人類全体を救ったのだ。 

この世界を創造された真実の神がおられ、その神により歴史は細部に至るまで計画されている。すべての事はそれに従って起こり、あまり良いとは思えないことも、すべてのことが相働きて結果的に益となる(ローマ8:28)。この世に起こることに対して支配権を持っておられる方は、私たちが信じ慕う、ただお一人だけだ。

その方が私たちを愛され、贖いのために御子を送って下さり、私たちのために永遠の場所を整えられている!!
このことを考えるだけで、本当に喜びがあふれてくる。この方に信頼し、自分にできるすべてのことをしたいと願う。そして最後には私たちは主と共に喜び、主にあって永遠の喜びが待っている。

キリスト教の将来は、ローマでもコンスタンチノープルでもニューヨークでも北京でもない。世界中の神の民の将来は、神のイスラエルへの約束が成就するかどうかにかかっている。
エルサレムにメシヤが戻って来て、新しいエルサレムを造られるかどうかにかかっているのだ。

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