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第25週:シェミニ(8番目)

基本情報

パラシャ期間:2023年3月26日~ 4月1日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) レビ記 9:1 ~11:47
ハフタラ(預言書) サムエル記第二 6:1 ~ 7:17
新約聖書 マルコ 7:1 ~23
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
 

コシャー(食物規定)の本当の意味
ユダ バハナ

ユダ・バハナ
(ネティブヤ エルサレム)

導入

昨日12日に過越しの祭り(ペサハ/ פסח)が終わった。皆さま、意義深い祭りを過ごされただろうか。私たちもコングリゲーション、そして家族として、素晴らしい聖日を過ごすことができた。
さて、この祭明けすぐのシャバットのパラシャ(通読箇所)では、シェミニを読んでいく。このパラシャではコーシャー(食物規定)、特に食べてはならない動物についてが大きなテーマになっている。ユダヤ人が食べないことで有名な豚ももちろん、清くない動物としてここで登場している(レビ11:7)。
 
また聖書の中でも最も有名な教えの1つ、「聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」はこのパラシャの最後、レビ記 11: 44に出てくる。
 
さらに二つの主要な歴史的出来事がある。それは幕屋の奉納と、アロンの子らの突然の死だ。
  

わたしが聖だから、聖なる者となれ

コシャー(食物規定)はユダヤ人により導き出され保存されており、また反対にコシャーがユダヤ人の集団意識を守ったとも言え、現在でもユダヤの伝統の中核を成している。歴史的に、そして現在でも、豚や豚肉を避けることは、ユダヤ教の象徴の1つとなっている。また「コシャーである/ではない」という表現はユダヤ人の間では、基準を満たしているかどうかや、何かのための資格の有無を指す言葉として使用されている。
 
そしてユダヤ人のそれぞれの全世代が、「なぜ神は、私たちにコーシャーでない、禁じられた食べ物を規定し、それを命じられたのか」を自問し、その理由を自答しようとしてきた。最もよく言われているコシャーの理由・存在意義は、「他の国・民と区別し、それを維持するのに役立つからだ」というもので、これは多くの人々によって提唱されている。またあるユダヤ人たちは、神のコシャー規定は健康上の理由から与えられたと考え、ユダヤ人の食事は、より健康的であると考えてきた。
 
これは二者択一ではなく、コシャー規定は上記2つ、両方の理由から与えられた可能性も、もちろんあるだろう。人間として、なぜ豚肉を食べることを神が禁じられたのか、様々な理由を考えることができるし、それを考えるのも人の性だ。しかし本質は「それがなぜか」ではない。神が命じられたことに対しては、私たちはその意図が理解できていなかったとしても従うのだ。
 
食べてはならない動物の長いリストと、それを食べるなという命令の後に、神はこんな言葉を掛けている―

あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。

レビ記 11:44

これは、コシャー規定内の食物を食べよという文脈の中で述べられており、興味深いポイントだ。この聖句は、神の戒めを守ることの大切さを示すために使われているのだと思われる。そして同時に私たち(イスラエルの民)に対して、口に入れるもの出すものを含め、清さを保ち聖である必要があることを、明確に示している。 

コシャーの持つ意味

ユダヤ・キリスト教とメシアニックの世界におけるコシャーについて議論は、最終的にはひとつの結論にたどり着く。イェシュア(イエス)が誰かの口に入るものについて話した時の言葉だ。

口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。

マタイ 15: 11

イェシュアが言っているのは、一見コシャーという律法に反し、違反しているように見えるため、解釈者のなかにはコシャーではないものを食べることを許可、さらにはそれを推奨している、と読む人々がいる。しかし、それはイェシュアの意図ではない。イェシュアの言葉は、いけにえに関する預言者イザヤの言葉と同じであり、ここでイェシュアはイザヤ的な切り口で語っているのが明らかだ。
 
イザヤは律法が犠牲・いけにえを明確に命じているにもかかわらず、「神は犠牲やいけにえを望んでおられるのではなく、むしろ人間の優しさ・倫理観を望んでいる」と言った。同様にイェシュアはここで、口から入るものが人を汚すのは一定期間・短時間に過ぎないということを意図している。そして事実、コシャーではないものを食べた者は、翌日・夕方にはその汚れの状態から清くなっている。
 
しかし口から出る言葉は、口から入れる食物とは違う。1日以上の間他者を汚したり、傷つけたりする力がある。例えばミリアムはモーセに対して放った言葉の結果、彼女はすぐに重い皮膚病・ツァラアトになり、それれによって彼女は清くない(コシャーではない)ものを食べたケースよりも、ずっと長期間汚れることとなった。
 
イェシュアの認識によると、倫理的な誹謗中傷などの行為と、コシャーではないものを食べることの行為の重大さは、全く比較にならない。嘘をつくことや、窃盗、殺人の行為の重大さに比較の余地がないのに、これらをすべて避けるように、と命じられていることと同じことだ。 

アロンの子らへの罰

このパラシャで私たちは、幕屋の奉納についても読む。出エジプト記の後半部分で、私たちは幕屋の詳細と、そこで使用される祭儀具や容器などについて読んできた。それらの指示に引き続き、レビ記の最初の部分に描写された幕屋での犠牲の捧げ物について、指示が続く。そしてこのパラシャは、その締めくくりとも言える幕屋の奉納から始まるのだ。
 
そんな奉納式の最中という楽しいはず、そして霊的に高揚・頂点に達した出来事の間に、祭司の家族とイスラエルの民は、悲劇的な出来事を体験することとなった。アロンの二人の息子であり、聖別されたばかりの祭司であるナダブ・アビフが、祝いの最中に、幕屋で神に打たれて死んだのだ。 

さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。
すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。

レビ記 10:1~2

アロンの息子たちに対する厳しい罰の理由は、この聖句にはっきりと書かれている。彼らが「異なる火」を捧げたのだ。注釈者たちはこの罪についての解釈を試み、2人は酒に酔って入ってきたのか、手足を洗わず・清めをせずに幕屋の敷地に入ってきた、と想像し解釈した。 

なぜナダブとアビフは打たれたのか

モーセとアロンから霊的な権威やリーダーシップを奪う反乱、あるいは彼らが霊的なエクスタシーになり、祭司という地位に酔っていた、と解釈する人々もいる。ここも議論を呼ぶ場所であり、多くの解釈が成り立つだろう。
私は、3つの可能性があると考える。 

  1. 霊的なエクスタシー。彼らは制御できないほどに興奮しており、神の命令を公共のしかも神聖な場で破った。この解釈によると彼らに悪意はなく、ただ彼らが無知だったということになる。

  2. 彼らが現世代の指導者たちに反抗し、アロンの子らとして祭司職を乗っ取り掌握し、同時に民族をモーセからも奪おうとしたというものだ。

  3. ぶどう酒が犯人である。アロンの子らが幕屋の奉仕についた時彼らは酔っており、それは受け入れられないことだったのだ。 

最初の二つについて、私は既に他の場所でも説明したので、今日は3つ目の「主の務めをする前に酔っていた」という可能性について、考えてみたい。
 
彼らの罪が、ぶどう酒に関係があるという事は十分に考えられる事だ。
なぜならその罰のすぐ後に神がアロンに対して、「会見の天幕に入ってきたときは、死なないように、ぶどう酒を飲むな」と言っているからだ。 

8主はアロンにこう告げられた。
9「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。

レビ記 10章 

教師の召命の厳しさ

正統派の宗教学校「イェシバ」で教えるラビ(中央奥)

この箇所から私たちは、非常に重要ないくつかのことを学ぶべきだ。
神が中央にいる、神の家ではその聖なることに対して、リスペクトを持つことは非常に重要である。私たちは、神の聖なる場所を汚すことはできない。また全能の主の御前で礼拝する時、不浄なものを携えて来てはならない。
 
神がアロンに告げたように、神は清いものとそうでないものを区別されている。したがって私たちは教会や会衆・コングリゲーションの中、礼拝する場所に入る際に同じような区別をする義務がある。私たちはその場所を、神の家として尊ばなければならない。
 
そして2つ目のポイントは、信仰によるコミュニティーの指導者には、大きな責任があるということだ。聖書時代の祭司と同様、ラビであれ、会衆・コングリゲーションの指導者であれ、牧師や神父であれ、大きな責任がその双肩にはある。私たちがその場にふさわしくない行為をする時、私たちは神の名を汚しているのだ。ヤコブの手紙にも、同じ考えが見られる。 

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3:1

このヤコブの厳しい言葉の、目的・意図は何だろうか。
 
最初に、ヤコブは教師がいてはならないと言っているのではない。教師の役割には、何かを築き上げる力と同時に、破壊してしまう力が同居していることを告げ、注意しているのだ。そこで彼は、注意深く振る舞うことを強調している。
 
教師は二重の責任を負う。なぜなら、教師は直接的な影響を与えるからだ。自分自身だけではなく、むしろ人々・集団全体に対して直接に、そしてとてつもない影響を与える。教師が失敗し、あるいは間違いを犯した場合、それは集団全体を欺いたとも言えるのだ。
 
イェシュアも責任と批判について、教師と指導者たちを警告した。イェシュアは、教師や指導者たちの間違った教えは、自身が天国に入れなくなってしまうだけでなく、彼らの教えを聞く他の人々の天国への扉をも、閉じてしまうのだと主張した。それゆえ、彼らの罰はさらに重大なのは必然である。 

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

マタイ 23:13

これは、タルムード(ユダヤ教の口伝律法をまとめたもので、ラビ的ユダヤ教にとっては極めて重要な書物)の引用と関連しており、非常に興味深い。 

トーラーは、ふさわしい生徒にだけ教えられるべきだ。
それ(相応しい生徒と)は、よい行いをしている人か、行いに関してまだ分からない人だ。
しかし(生徒になろうとしている者が)悪い道にいる場合、その行動を正すための影響を受け、まっすぐな道をたどるように訓練されるべきだ。
(悔い改めと訓練の後に、彼の新しい行いが)調べられてから、学びの家に入って教えを受けることができる。

タルムード・トーラー 4:1

「悪い道にいる、生徒になろうとする者」とは、適切な行動をしない人のことで、それゆえトーラーを学ぶ場・学校(ベイト・ミドラッシュ)に受け入れられるべきではないのだ。
 
ここで、1つの点が引っかかる。本来であれば、このような人こそ、他の生徒たちよりもっとトーラーを学び、美徳や正しい振る舞いに関する教えを受け取るべきではないのだろうか。
 
しかし、適切に正しく行動しない生徒は、神への冒涜を引き起こすのだ。一体、なぜそうなるのだろうか。
 
トーラーを学ぶ生徒は、ユダヤ人・ユダヤ教を代表する者として、すべての目にさらされることになる。そして一般的には、宗教の代表者の道徳的価値や行いに応じて、その信仰が美徳か悪徳か、評価されることとなる。トーラーを学ぶ生徒の良い性格や行いを見て、人々はトーラー自体を尊敬するようになるのだ。
しかし行いの悪いこの生徒は、自分たちだけではなく、自分たちが代表しているトーラーに対する、他者の見方を悪化させ、トーラーに泥を塗ることになる。これは神への冒涜になるのだ。
 
もし1人の生徒ですらそうなのであれば、教え・率いる立場になる指導者や教師はさらに大きな責任を負うことになる。アロンの子らの件も、これと同じなのだ。
 
しかしここで私は、一つプラスになるような指摘をしたい。悪い行いをする生徒はトーラーやそれを与えた神を冒涜するのであれば、逆もまた真なりなのだ。他者の前でトーラーやそれを司る神をほめ称え、他者が持つそれらへの見方をガラッと変えることも同様に可能なのだ。
 
私たちは神、そしてメシアであるイェシュア、そしてその信仰の看板なのだ。私たちは文字通り、『歩く/生きた宣伝塔』なのだ。私たちや私たちの生活・振る舞いのうちに、肯定的な光にあるのを人々が見る時、私たちは神の良い宣伝をしたことになる。
信仰者として、これ以上の誉れはあるだろうか。 

結論

今日はコシャー規定を中心に話をした。

イェシュアが強調したのは、大切なのは口から出るものだということだ。しかし、それは口に入るものを軽視せよ=(ユダヤ人に対して)コシャーを守るな、ということではない。例えばエルサレム会議(使徒15章)では、①絞め殺したものと②血を食べないようにと、異邦人ビリーバーにたいしても呼び掛けられている。
神からの命令の本質は、「神が聖であるから、あなたたちも聖なるものとなれ」であり、これは食べることに適していない(ノン・コシャー)食品のリストの後に書かれている。
 
また、アロンの子らナダブ・アビフの悲劇的な最期についてお話した。私たちは全員、神の言葉・教え(トーラー)を学ぶ生徒である。私たちが正しく振る舞うこと(行い)と、そして神の家で神聖な義務を守ることの重要性について話した。そして指導する立場にいる者たちに対しては、より厳しい基準と罪・罰が伴う。
 
私たちはただ良い行いを行い、自らを義とするためだけに召されているのではない。イェシュアの信仰の看板塔として召されており、これを忘れてはいけないのだ。
さて、これからも皆さまと天国に還元の出来る、『よき広告塔』として生きていければと思う。

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