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第38週:マトット(諸部族)-マスエイ(旅/旅路)


基本情報

パラシャ期間:2023年7月9日~ 7月15日
 
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 民数記 30:1~32:42 33:1~36:13
ハフタラ(預言書) エレミヤ 1:1~2:3 2:4~28, 3:4 
新約聖書 マタイ 5:33~37 ガラテヤ 3:26~ 4:7
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

 ヨセフ・シュラム師と読む、
パラシャット・ハシャブア


私たちは民数記の終盤のパラシャ、「マトット」までやって来た。マトットとは、シナイの荒野でイスラエルの陣営の運営を司っていた「部族やその組織」を意味する。 

モーセはイスラエルの諸部族のかしらたちに告げた。
「これは主が命じられたことである。」

民数記 30:1

「主が命じられた」というような、強調の言い方で始まっている場合は、何を意味しているだろうか。
ある種の物議を醸す問題・議題を取り扱っている、ということだ。
モーセ時代の紀元前1200年当時に賛否両論で議論を呼ぶものだったということは、21世紀の私たちの時代は言わずもがな、よりそうだろう。 

論争は何だろうか。トーラーを見てみよう。

誓願に伴う、強いコミットメント

男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。
すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。

民数記 30:2

この誓いは、誰かが私たちを縛るものではない。主のために、あるいは共同体の他の誰かのため、または共同体というコレクティブのために、自分自身を縛るものだ。
そのときあなたは自身の意思で決定し、自分自身を縛り付けたのだ。

そして男性ならその事実から、自身をその縛りから解くことはできない。あなたは自由意志によって誓いを立て、強いコミットメントを伴う形で神との約束をしたので、神との約束を最後まで守る義務を負う。 

そして、もしその誓願を私たちが守らなければ、恐ろしい結果が待っている。なぜなら、あなたは神と自ら進んで約束をしたのに、それを守らなったからだ。したがって、非常に重い代償を支払うことになる。
 
女性に対しては未婚であれば彼女の父親、既婚女性であれば夫が「誓願について聞いた当日のみ」という条件で誓願を無効にできるという男女間の差はあるが、女性であってもそれ以降は男性の場合と同じく『有効な誓願』となり実行しなければいけないという、非常に重い義務を負うこととなる。 

山上の垂訓のベースになっているパラシャ

ガリラヤ湖畔にある山上の垂訓教会
(waynestiles.com より)

そんな誓願がどれほど重要かつシリアスであるかという背景と共に、イェシュア(イエス)が行った最も有名な教えである、『山上の垂訓』の1節を読んでみよう。イェシュアはガリラヤの海の近くの山すそに座っている、群衆に対して語りかけている。 

33また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
35地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
36自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
37あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

マタイ 5章

これが、イェシュアの教えだ。そしてイェシュアだけでなく、イェシュアの時代である紀元前1世紀から紀元後1世紀の頃に、これと非常によく似た内容を教え説いた偉大なラビがいた。
本当に賢明かつ、力強い教えだ。 

なぜ誓いを立てるのか。誓う必要がないのに、なぜ誓うのか。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい。それで十分であり、自身を守るためでもあるのだ。

なぜイェシュアは、これを教えているのだろうか?
イェシュアはおそらく山上の垂訓の前にトーラーのこの箇所を読み、主の前で誓いを立てることがどのような(深刻な)ことだということを、理解していたからだ。 

パウロが立てていた誓願―

エペソにあるローマ時代の船の復元。
このような舟に乗り、パウロは地中海世界を旅した。
(holylandphotos.files.wordpress.com より)

例えばパウロは誓いを立てており、したがってその誓いを守らなければならなかった。
使徒の働き18章を、見てみよう。 

パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。
パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアで髪を剃った。

18節 

パウロは小アジアにいて、アクラとプリスキラを訪ね、シリアに航海したいと考えている。ところで、アクラということばの意味は、ラテン語とギリシャ語で、アクラはワシ、大きな翼を持つ鳥のワシのことだ。それからパウロは彼らを訪ねた。そしてコリントの港のケンクレヤにたどり着き、この聖句に繋がっている。 

パウロはアクラとプリスキラと一緒に、港から船に乗ってエルサレムに向かった。その道中でエペソに立ち寄り、シナゴーグでエペソのユダヤ人たちと論じた。彼らはパウロにもっと長くとどまるようにと頼んだが、聞き入れず、パウロは彼らにさようなら(シャローム)と伝え、その地をあとにした。 

「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」
と言って別れを告げ、エペソから船出した。

使徒の働き 18:21

現代でも英語圏などでは「God willing(神の意思・心にかなえば)」というような表現をし、イスラエルでも「神の助けがあれば」と日常的に言う。
現在では本来あったみこころという意味合いは薄れ、人同士が交わす定型表現となったが、2000年前地中海船旅まさに命がけであり、ここのパウロの心では直前の神への誓願も相まって、本当に心の底からの「神のみこころ」を意味している。 

そしてエペソからイスラエルの地に向かって出帆した。
21章に入ると、エルサレムに向かう彼に対してツロではツロ、カイサリアではカイサリアの信者たちが、またユダから下って来たアガボという預言者が、逮捕されるのでエルサレムに行かないようにさせようとしている。
 
するとパウロは彼らに対して、こう言った。 

「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。
私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」

13節

パウロは死の痛みでさえも、覚悟していた。
パウロは、男性が自分が立てた誓いから解放されることはできないと、身をもって理解していたからだ。
そして26節では、供え物を捧げている。 

これらのことから、イェシュアは山上の垂訓で
「誓いを立てるな」
と教えているのだ。

もちろんどうしても必要な(パウロのような例外的な)場合はあるが、そんなことがない限り兄弟姉妹の皆さま、誓いを立てないで頂きたい。法的な理由などで誓いを立てる必要がない場合、誓いを立てないことを勧めたいと思う。
イェシュアの言葉通りだ―
 
あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ている。 

大祭司の死がもたらす、罪の赦し―

逃れの町の1つである、シェケム(現ナブルス)の城壁
(waynestiles.com より)

では少し飛んで35章9節に入ると、故意ではない殺人が起こってしまった時のための『逃れの町』を作るように、という命令がある。 

偶然の事故で計画的ではない殺人が起こった場合、犯行者が逃れの町に逃げて行けば、遺族による血の復讐から、法的に保護される。「目には目、歯には歯(出エジ21:24)」とあるように、魂には魂・殺人には殺人を、と遺族が復讐を望むのは自然な気持ちだ。 

ヨルダン川の両側にはのがれの町が片側に三つづつあって、そこに逃げ込むことができ、誤って事故を起こして逃げてきた他の人々と一緒にこの町に住む。そして在職している大祭司が死ぬと、逃れの町に住む住人/囚人はみな釈放されて、誰も彼らに触れることはできない。 

これは古代中東のすべての法典の中で、珍しい例だ。そしてこの血による血への復讐は、現在のアラブ社会にも見られるものだ。例えばイスラエルの人口10万人あたりの殺人事件の件数(=殺人された被害者の数)は、2023年現在2.34人となっている。しかしこれをユダヤ人・ユダヤ人に分けると。ユダヤ人は0.67人なのにたいして、アラブ人社会では9人と10倍以上の数値になっている。
そしてその多くがアラブ人の家(核家族よりも大きく小氏族よりも小さい)の間での、復讐の連鎖によるものだ。

ナザレであったアラブ社会での暴力・殺人に反対するデモ。
多くのアラブ市民は取り締まりの強化を警察・政府に求めているが、
文化的背景も多分にあるのが現状。
(globes.co.il より)

A家の誰かがB家の誰かに暴行などで怪我を負わせたとなれば、B家はA家の誰かを襲撃し『復讐』という名のもと、より重い怪我を負わせる。するとA家がB家に、そしてそれを受けたB家がA家にと、復讐が雪だるま式に大きくなり、ピストルやライフル銃を使った殺人の応酬へとなっていくのだ。
これは聖書時代ではなく、イスラエルという先進国に分類される国のアラブ人社会に、まだ残っている現象だ。 

しかし聖書時代に、中東では日常的に繰り返されていた(そして現在も一部が残る)この習慣は、とどのつまりは憎しみや殺人、破壊と不義の連鎖である。
そして神はそれを、望まなかった。かえって神は、誤って罪を犯した者が生き延び、悔い改めた人生を送ることができる、セカンドチャンスのシステムを構築するべきだと考えた。

誤って罪を犯した場合は、生き続けることができる。誤って罪を犯した者は、赦されることもできる。報復と復讐という、不毛な連鎖は神には許されないのだ。 

この逃れの町は、素晴らしいことだと思う。これは、神の子らのための備えでもある。神の備えとは、天からのマナや荒野のうずらなどの大規模な奇跡や、アブラハム・イサク・ヤコブへの壮大な約束や、それに含まれるこの土地だけでない。
誤って罪を1度犯した者に対して受け皿のある社会を作る― そのための逃れの町は人々のための、神の備えなのだ。 

大祭司
(BiblePlaces.com より)

そしてもう1つ、この逃れの町のシステムには新約に通ずる大きなポイントがある。 

その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。
大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。

28節

殺人の罪を犯した者たちが1度にその罪が許され、
贖われるタイミングはいつか?
大祭司が死ぬ時だ。

このように、
神によって任命された者(1人)の死は、
誤って罪を犯した罪人(全員)を贖う

これは新約のイェシュアによる贖いと、リンクしているのがビリーバーである私たちは分かるだろう。ヘブル人への手紙4章では、イェシュアが「偉大な大祭司/私たちの大祭司」であるとある。
アダムによる罪とその代償である死を(意図的ではない形で)背負う私たちは、民数記にあるように偉大な大祭司の死によってその罪が贖われたのだ! 

再び律法をアップデートした神

先週のパラシャでも取り上げた、ツェロフハデの5人の娘

では民数記の最後、36章を読んでみよう。
先週のパラシャ「ピネハス」と同様、ツェロフハデの娘たちについてのストーリーが登場し、民数記はそれで締められている。

先週のパラシャを復習すると、ツェロフハデというマナセ族の男性には娘だけで、息子がいなかったことを思い出そう。そして神の律法(トーラー)によれば、神から賜ったカナンの地では、息子だけが受け継ぐことのできる相続権を有していた。 

しかし、この人には娘しかいなかったため、娘たちはモーセのところに来て、
「聞いてください、私たちの父には息子がおらず、私たちが相続して父の名を残せないのは公平ではありません」
と主張した。 

そこでモーセは、
「あなたがたが言うことには、一理ある。上司に相談してみよう」
となり、モーセは神に語りかけた。すると神は「モーセよ、この娘たちは正しい」と、律法が改正された。これは歴史上初めての女性解放、とも呼べるだろう。
紀元前12世紀のモーセの時代に神から出たものであり、20世紀初頭に認められ始めた女性の解放や投票権などよりも、ずっと前の話だ。 

しかしこの『トーラー改正』によって、新たな問題が生まれた。
彼女たちがマナセ族以外の男性と結婚した場合、ツェロフハデの土地がその男性の部族のものとなり、マナセ族の相続地が縮小してしまうのだ。

そこで神は、ある部族から別の部族に土地が移らないため、娘=女性が土地の相続者となった場合は、同部族の男性と結婚するように、と新たな条項を書き足した。
そうすれば、土地はその部族の所有として残り、他の部族のものになることはないからだ。 

先週そして今週のパラシャに見られる一連のトーラー改正は、神の持つすばらしい正義を私たちに見せている。
神は私たちを律法主義のもと冷酷に裁く裁判官ではなく、人に対する偉大な理解者なのだ。神は決して、法という枠組みで縛って身動きを取れなくするような、堅物ではない。そしてこれを理解するのは、すばらしいことだ。神は私たちの必要を聞かれる。
神は私たちの必要を気にかけておられる。そして神は必要ならば律法を変えて、天と地そしてそれらを構成する私たちのために、時として正義と公正のために律法を変えられるのだ。 

来週からは、いよいよトーラー(モーセ五書)の最後の書、申命記に入っていく。
最終コーナーを回って、(ユダヤ暦の)1年ももう少しだ。
引き続き、共に神のトーラー(教え)を学んでいきたいと思う。
 
日本の皆さま、シャバット・シャローム!

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