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第20週:テツァベ(あなたは命じなさい)

基本情報

パラシャ期間:2023年2月26日~3月4日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 27:20 ~ 30:10
ハフタラ(預言書) エゼキエル 43:10 ~ 27
新約聖書 テトスへの手紙 1:5 ~ 2:15
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
 

ヨセフ・シュラム師と読む『テツァベ』

ヨセフ・シュラム師
(エルサレム)

メノラ(七枝の燭台)について―

エルサレムで見つかった、イエス時代のメノラの壁画

先週のパラシャ(通読箇所)では、幕屋の建設について学んだ。民が金銀や木材・革などの素材を持ち寄り、ひとりひとりのテルマ(奉納物=献金・貢献)によって幕屋が完成した。そしてこのパラシャではその幕屋の中に灯される、ランプ・燭台についてまず取り扱われている。

あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。

出エジプト27:20

幕屋には光を取り入れるための、窓などはなかった。そこでテント状の幕屋の中に、常に火がついている灯りが必要だったのだ。そしてそのランプはオイルランプになっており、そこには純粋なオリーブオイルが使用された。
現在イスラエルではどのスーパーでも最低でも10種類のオリーブオイルが置かれ、非常に手軽な存在になっている。しかし荒野を放浪しているイスラエルびとにとって、エキストラバージンオリーブオイルを用意するのは、並大抵のことではなかった。ナツメヤシを育てるのには適しているが、荒野はオリーブ栽培には全く合っていない。ということはイスラエルの地で定住しオリーブを栽培するまでの期間、荒野を彷徨っている間、イスラエルびとはオリーブ油をエジプトを出入りする商人たちから、購入する必要があったのだ。

モーセとアロンの指揮のもと、レビびとだけでなくイスラエル民族全体が関わって、作った幕屋を維持することは、オリーブ油だけをとっても容易なことではなかったのだ。

そしてメノラ(燭台)で使うオリーブ油と同様に、メノラについても先週のパラシャで詳細な規定がなされている。

創世記1章1節

なぜ 7つの枝かというと、神が天地を7日間で創造されたからだ。この7というのは重要な数字で創世記1:1は、ヘブル語では 7つの言葉から成り立っている。神の御言葉は全てが順序正しく、完全である。全ては神の意思により創造され、絶妙な音楽のように『サブリミナルな旋律』も多用されている。

「7」という数は、この物理的な世界の創造を表す数だ。そして「770」は、物理的な世界を表す数になっている。そして天からの角度から見た完成は「10」だが、聖書は同時に「7つの天」にも触れている。 

主に仕えることは手軽な行為ではない―

神殿時代の祭司職の復興を願う『神殿研究所』による、
祭司職のシミュレーション・実演。

28章に入ると、大祭司をはじめ祭司たちの装束に関する規定になる。ここで私たちが学ぶべき重要なポイントは、「神に仕える事は気軽なことではない」ということだ。

トーラー(モーセ五書)や預言書・詩編などの諸書、そして新約聖書の聖書全てにおいて共通することだが、『神に仕える』という事は手軽な行為ではなく、非常に特別で聖なることであり、仕える人は特権的な地位なのだ。

どういうことかと言うと、神に仕えるということは時として、自身のしたいことができなくなり、自由が奪われるということだ。仕えるということは、自身の衝動や欲求ではなく主の命令を忠実に行わなければならないからだ。神から「Aをせよ」と言われた時、私たちは全く違うBを行っていたり、Bを希望したとしても、その気持ちを一切捨てて言われたとおりにAを行う義務が生じる。
世俗の世界でも私たちは仕えている上司(主)の命令を守り、それに従わなければ懲戒され、ついには解雇されてしまう。私たちが仕えるのが天地の創造主、神聖な神であるならば、なおさらのことだ。 

ナダブとアビフ

そして「神に仕える」ということに対し、ある種当たり前に感じ、気軽・手軽なことと感じた結果は、アロンのふたりの子ナダブとアビフから学ぶことができる。レビ記に書かれているが、炎が天から降り、彼らは焼き尽くされた。

ナダブ・アビフが死んだ後、神はモーセに対して「祭司はぶどう酒を飲んではいけない」と命じられており、ここからなぜ二人が「異火」を捧げたのか推測できる。アロンの子であり、祭司家系に生まれ、祭司職に関する訓練・英才教育をアロン自身から受けた二人だが、違う場所から間違った火を使っていけにえを捧げてしまった。

ここでポストモダンの21世紀を生き、合理主義的な私たちはこう考えてしまう―

  • 火はどこから取っても同じ火ではないか。

  • 火の役割=物を燃やすことであり、どこから取って来たかは重要ではない。

しかしこのふたりが死んだ悲劇から、神がそのようなスタンスを採用されていないことが分かる。

神が何かをするよう命じられた際は、その最終的な結果だけではなく「どのように行うか」という経過・プロセスも同様に重要なのだ。
やり方を神が示された場合は、必ずそのやり方で行わなければならない。これも世俗の例、会社で考えてみても同じだろう。上司からやり方に関する指示を受けた際には、その変更に対する了解がない限りは、その方法で仕事を行う必要がある。

アロンとその子たちの役割はイスラエル民族と神との間に立つ者であり、1から10まで事細かい規定が神自身から提示されていた。そしてそれは、祭司たちを任命する油注ぎの儀礼にも、表れている。

祭司は1度は油によって(29:7)、そしてもう1度は血による油注ぎを受ける― 

雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また彼らの右手の親指と右足の親指に塗り…

出エジ29:20

もちろんこの血はいけにえを意味しているのだが、

  1. 右の耳たぶ

  2. 右手の親指

  3. 右足の親指

という血を塗る場所にも、重要な意味がある。

彼らは神から聞き(耳)、神の御心を行い(指)、神の道を歩む(足)必要があったからだ。

ここで学ぶ事は、祭司の仕事は、その装束に至るまで、全てが詳細にわたって、神と聖霊のコントロールの下にあるべきだということだ。
この格式ばった形には、律法主義との批判があるかもしれない。しかし「格式ばらない・気取らない・気軽な」といった表現は、自身の感情や欲求からの行動を正当化するためにも使われかねない。
神の規定した/命じた通りにする、ということは自身の都合や尺度を離れ、神が決めた枠組みの中に入ることであり、それが『格式ばる』ことは何ら矛盾ではないのだ。 

もちろん全ての人がそれぞれ違った場で、(祭司のように)神に仕えることができ、それは推奨されるべきことだ。しかし現在の教会ではあまりにも神に仕えることが気軽に、軽く捉えられている節もある。

神に仕えることは非常に重大で重いことであり、この祭司に関する規定は私たちにそれを思い出させてくれる、最適な教材なのだ。

牧会は職業ではなく神からの召し―

今日、教会やコングリゲーションを牧会する事は、職業のようになっているような風潮がある。神学校に入り卒業すると牧師の肩書が与えられ、その後に牧会する。
しかし本来はそうではなく、神からの召しのみが中心でなければならない。アロンや祭司たちに対して規定された「聖別」のための装束と同様、牧師の収入も、住む家も、その他全てのことでも、神の御心と指示の通りにしなければならないのだ。 

そして神が呼ばれた時、召された私たちは自身の考えではなく、神の指示通りに振る舞わなければならない。
神によって聖別され、聖霊によって油注ぎを受けたのだから、祭司たちと同様、神の務めをまずするべきだ。そしてそれには、一人の人としてはとてつもなく大きな代償が発生することもある。
ナダブとアビフを失った時、アロンは最愛の息子たちの死を嘆き悲しむことを禁じられた。
それは非常に辛く、一見人道に反していることだ。 

新約聖書にも、召しを受けて群れを率いる長老についての記述があり、テトス1章がこのパラシャに合った新約聖書の箇所になる。誰もが気軽に長老になれるわけではない。

まず第一の長老の資格は、ひとりの妻の夫であり、子供がビリーバーであることだ。もし子供たちが信心深くなかったり、主のもとを離れてしまったら、その父である男性は長老を務めることはできない。
霊的に人を率いる者には、自身の子供たちを霊的に育て上げたことが条件になっており、この新約聖書の箇所は群れの上に立つ者に対して、高いハードルが設定されている。

6節では長老、7節では監督(英語では司教としても使われるBishop)についてであり、この2つはギリシャ語でも違う単語が使われているが、実際の共同体での日常生活を考えると、あえて区別させる必要はなく、同義語と取って差し支えないだろう。
監督には保護・監視する人という意味を持つ言葉であり、群れを自らの目で守る牧者に近いものがあり、長老とは高齢という意味ではなく成人を表す司法的な用語でもある。
ティーンエイジャーは不適合だが、必ずしも年齢の高い人が『長老』に適している訳ではなく、問題・いざこざを抱えた兄弟姉妹の間を仲裁し、時には問題を吟味し決定を下す能力があれば、成人後の年齢に関しては不問で良い。

テトスへの手紙を見ると、年の功よりも人格に重きが置かれている。人をよくもてなす人でなければならず、同時に不正なビジネス・儲けなどと縁のない人々でなければならない。イスラエルでも多くの国民が脱税を試み、実際にしているが、そういうよこしまな人は長老/監督にはなってはいけない。

そして油注ぎを受けた祭司と同様、長老/監督は神に仕えたものとして、振舞い方に対する義務と責任が生じる。そして新約聖書を読むと、私たちはひとりひとりが祭司である。全員が自身のコミュニティーにおける、長老/監督ではないが、祭司ではある。

このパラシャから学ぶ祭司への細かい規定から、私たちも祭司としてどのように振舞い、そしてまずどのように神に対して、そして神が示した命令・戒めに対して従順になるべきかを、学んでいこう。

私たちは恵みによって救われており、それは行いによるものではない。しかしその恵みをもって、私たちは強固な信仰や知恵、そして聖霊による油注ぎをもって、主なる神に対して従順に従うだけでなく、その御心を実行する必要がある。

それぞれの与えられた場で祭司として、神からの声を聞き、神の御心を行い、神の道を歩んでいこう

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