見出し画像

第11週:ヴァ=イガシュ(近づいた)

(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)

基本情報

パラシャ期間:2022年12月25日~12月31日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記44:18 ~ 47:27
ハフタラ(預言書) エゼキエル書 37:15 ~ 37:28
新約聖書 ルカの福音書 6:9~16
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)

聖書の中で最もドラマチックな場面―
ヨセフ・シュラム

ヨセフ・シュラム
(ネティブヤ エルサレム)

この箇所は、最もドラマチックかつ興味深いパラシャ(通読箇所)のひとつだ。第1週の『ベレシート(はじめに)』が最も重要なパラシャだとすれば、この『ヴァ=イガシュ』は最もドラマチックなパラシャである。ドタンの谷でヨセフを殺すのではなく、イシュマエル人に売ろうと提案したユダが、ヨセフに近づき語り掛けるところから、今週のパラシャは始まっている。

『その時』を生んだユダの悔い改め―

ヨセフを売るというのは、ユダの提案だった。

すると、ユダが彼に近づいて言った。「ご主人様。どうか、しもべが申し上げることに、耳をお貸しください。どうか、しもべを激しくお怒りにならないでください。あなた様はファラオのようなお方です。

創世記44:18 

この節から始まる言葉でユダは、ベニヤミンを救い父ヤコブのもとに戻れるよう、自身が捕らわれの身になることを、自ら提案し懇願している。父の深い悲しみを見たユダは、自分たちの起こした罪を悔い改め、この場面ではベニヤミンの代わりになると申し出たのだろう。

もし聖書の場面に立ち会えるのであれば、この場面を私は選ぶだろう。このユダの言葉を聞いた時のヨセフの表情を、彼がどんな顔をしたのかを私は見たい。とにかくこのヨセフとユダの再会から私たちは、人は変わることができるというのがわかる。 

ある人が大きなそして致命的な間違いを犯したとしても、必ずしも良心が欠落しているとは限らない。ユダから私たちが汲みとれるのは、どんな人間であれ良い側面・性質と悪い側面・性質が共在している、というどんな人間にも適用できる事実だ。

そしてユダと同じような難題に、私たちも生きているなかで取り組んでいる。自身の間違いや悪いおこないを告白して悔い改め、その悪を良きおこないによって善きものへと変える― これとは誰もが日々格闘しているだろう。

そして自身の父でありヨセフの父でもある、ヤコブについてユダは包み隠さず語り、その言葉がヨセフのかたくなだった心を溶かした。この言葉をきっかけにヨセフもある意味悔い改め、11人の兄たちに対して隠していた、自身の本当の姿をついに明らかにしたのだ。

32というのは、このしもべは父に、『もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らなかったなら、私は一生あなたの前に罪ある者となります』と言って、あの子の保証人となっているからです。
33ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。
34あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」

創世記44章 

この聖句から、ヨセフをイシュマエル人へと売った後のユダの心模様とその変化を、以下のように推測することができる。 

  1. ユダは、他の兄弟たちと共にヨセフに対して抱いていた、憎しみが無意味で間違っていたこと、そしてその憎しみが破壊的な結果をもたらしたことを理解した。

  2. ユダは、ヨセフとベニヤミンという末っ子のふたりが、どれだけヤコブにとって大切かを理解した。ヤコブがラケルをより愛したという事実だけでなく、このふたりはラケルが神に対して祈りそれに神が応えられるという、(他の子供たちには見られない)特別な形で生まれたということを、ユダ自身も理解した。

  3. ユダは、父ヤコブを深く愛していた。そしてヨセフがいなくなったなか、愛する父に更なる悲しみを与えたくなかった。

  4. ユダは、責任を取ってベニヤミンの身代わりとなり、彼の自由と引き換えにエジプトで捕らわれの身になることを望み、申し出た。ユダは自身の自由を犠牲にしても、ベニヤミンが安全にカナン、父のもとにに戻ることを保証しようとした。この行為は、ユダがようやく本当の兄弟がどういうものかを理解し、そこから出た真摯なものである。 

そしてやって来た『その時』 

14世紀にバルセロナで使用された、
『姉妹たちのハガダ(過ぎ越しの祭 式次第)』にある
ヨセフと兄弟の再会を描いた挿絵。

そしてこの過去のおこないに対する悔い改めと、父とベニヤミンへの愛を行動で示した兄ユダの姿が、ヨセフの心が溶かされるという感動的な瞬間を引き起こした。ヨセフは人払いをし、すべてのエジプトびとを部屋から出し、自分たちだけの空間で兄弟たちに自身の本当の姿を明かした。

3ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり、答えることができなかった。
4ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
5私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。

創世記45章

ヨセフは、兄弟たちの自然な反応が「恐れ」であることを理解していた。ヨセフが自分たちに長年の恨みを晴らし、『倍返し』して報いるのではないか・・・そこでヨセフは、自身に仕返しの意図がないことを告げている。そしてこう続けた― 

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。
神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。

創世記 45:8

苦しい日々に対しての、なんと素晴らしい解釈・捉え方だろうか。私は曾祖父と祖父の名前からヨセフと名付けられたのだが、このヤコブの子ヨセフの偉大な性質は持ち合わせていない。私の受けた試練や苦難が神の手の中で癒され、神の国とイスラエルのために働く特権・喜びに変えられた。しかし信仰者としての初期の歩みにおいて、聖霊の言葉が何を意味するかを本当に理解していたならば、またパウロ書簡を正確に理解していたなら・・・

もっと多くのことを成し遂げるために用いられ、家族の健康などの問題を全てひっくるめて、イェシュア(イエス)について教える教師として召されたことを、もっと喜んでいることができただろう。

選ばれ・召された者


獄中で夢を解き明かすヨセフ

27人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。
28神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
29神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
30神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

ローマ 8:27-30

このパウロの言葉ほど、ヨセフのエジプトでの波乱万丈な日々を表している聖句は、ないかと思う。

ある人々の人生・道は、定められている。これはその人々の救いに関してではなく、歴史への関わり方についてだ。モーセやエレミヤ、ダビデにイエシュア、ラケルの子ヨセフのように、召された者たちは歴史という書物のなかのキー・決定的瞬間となる、重要なページのために選ばれ、創られているといえる。彼らは単に自身のためではなく、かえってそれが自身の益には直結しないような形で、人類全体の歴史のために選ばれている。聖書時代の例で言えば、シオニズムの霊的な父であるテオドール・ヘルツェルや、建国の父であるダビッド・ベン=グリオン、それに歴代のイスラエル首相などもそうかも知れない。 

そしてそんな人材たちのなかでも特異な存在と言えるヨセフは、自分の役割を十分に理解していた。そしてその選びや役割の副産物とも言える、エジプトでの獄中の日々や奴隷としての身分などについて悲観や後悔を全くせず、振り返ることをしなかった。 

ヨセフと同様にイェシュアの弟子たちも、自由を奪われて迫害に遭い、時には空腹や病にも襲われた。しかし彼らは、自らにとって好ましい生活よりも召しに重きを置き、来たるべき王とその王国のために全てを犠牲にして、捧げた。同胞であるユダヤ人にののしられ、イェシュアが言うように十字架の痛みの分け前を、人生を通して受け取ったことを喜んだ。彼らを支えたのが、ローマ書 8:28に書かれている信仰である。 

ヨセフ=イェシュアのひな型 

16世紀のエルサレムを中心とした、世界地図。
来るべき日、主の臨在・栄光はエルサレムから世界へ…

さて、ヨセフに話を戻そう。ヨセフは兄弟たちに憎まれ、拒否され、侮辱されたが、最後には兄弟たちの救いとなり、贖い主となった。

それはまさにイェシュアのひな型である。

イェシュアはイスラエルびととしてユダ部族に生まれ、地上の人生においても多くの人々に憎まれた。彼を受け入れたのは、ほんの一握りの弟子たちだけだった。彼らだけがイェシュアがどういうお方か、そしてその主がなされたことの意味を理解した。 

その後もヨセフが憎まれていたように、ユダヤ人の大部分が今日まで2000年に渡って、兄弟であるイェシュアを憎んでいる。そしてその一方、異国の地でイェシュアは主・救い主、神となっている。これもまた、ヨセフがひな型となっているのが分かる。 

しかし、それが変えられる日が来る。イェシュアが雲に乗って来られ、シオンの山に降り立たれる。その後イェシュアはクネセット(イスラエル国会)の真ん中に立ち、そこで自身を明らかにされるだろう。イスラエルの人々に自身の傷を見せられ、

「私はイェシュア、あなたがたの兄弟だ」

と言われる。 

その時イスラエルでは、全てのラビや超正統派のユダヤ教徒たち、そして世俗的なユダヤ人たちも地に伏し、王のなかの王・主の中の主を拝すだろう!
そしてクネセットはもちろんエルサレム中を主の臨在が満たし、エルサレムから地の果てまで広がるだろう。 

その時ユダたちヨセフの兄弟11人が恐れたように、イェシュアを迫害した人々も自身のしたおこないを理解し、恐れるだろう。しかし、イェシュアはヨセフのようにこう言うだろう―

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

創世紀 50:20

イェシュアの同胞・兄弟達であるユダヤ人が現在イェシュアを憎んでいるのは、(彼らに自覚はないが)神の御心を進めているのだ。そしてヨセフの兄弟たちと同様、彼らも悔い改めるのだ。 

これはまさにイザヤ書2:66が、成就する時だ。天からエルサレムが降りてきて、私たちが今いるエルサレムを包み込む。そしてダビデの街ベツレヘムで生まれ、(もう一つの)ダビデの街エルサレムで十字架に掛けられたのちに復活した、その方が皆に拝されて神の右に座す。そして神はこう言われるだろう。

「さぁ、わたしの愛する子よ。
今日こそあなたの日、
すべてのイスラエル、世界中のあなたの弟子たちと共に、
喜び楽しむ日だ!」 

ヨセフが自身を表す瞬間について兄弟たちやヨセフ自身も分からなかったように、イェシュアについてもいつその日が来るかは分からない。しかしイェシュアも私たちも、その日を常に待っている。

希望と信仰、そして備えを持って、共にその日が来るのを待とうではないか!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?