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第1週: ベレシート(はじめに)

(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)

基本情報

2022年10月18~22日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記1: 1-6: 8
ハフタラ(預言書) イザヤ書42: 5-43:10
新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1-15(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

聖書の基本となるテキスト

ヨセフ・シュラム 
(ネティブヤ、エルサレム)

世界には数多くの国々、文化、宗教があるが、毎年ユダヤ人のように新しい始まりを迎えるという例はそう多くはない。新年やロシュ・ハシャナ(ユダヤ暦の新年祭)でもなく、すべてのシナゴグで公に行われている聖書(モーセ五書の)通読のサイクルが新しくなる、というユダヤの伝統はその点で異質のものだ。 

スコット(仮庵)の祭りの最終日、世界中ですべてのユダヤ人が (そして一定数のメシアニック・ジューが) シナゴグで申命記の最後を読む。それから聖書の巻物を文字通り巻き戻し最初に戻り、創世記の最初の章を読み始めるのだ。この安息日、私たちは創世記1章から6章の初めまでと、イザヤ書とヨハネによる福音書から読んでいく。

この慣例は新約聖書の中に何度も出てくる。イェシュアが自身の故郷ナザレに来られた時、彼は会衆から求められ預言者の書イザヤ書 61章を読むという栄誉に預かった。

「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつもの通り安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。」

ルカ 4:16

律法の書を朗読するという栄誉は、会衆の中で尊敬されている人にのみ与えられる。もっともあるのが誕生日をその週に迎えた人だ。また使徒による働きを読むと、ユダヤ人コミュニティーに参画していた異邦人の兄弟たちに、使徒たちはモーセの律法の書が読まれるのを聞くため、毎週安息日にシナゴグに行くように勧めている。

「昔から、町ごとにモーセの律法を述べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

使徒行伝 15:21

人々は聖書を部分的なものでさえも、持っていないのが普通だった。モーセ五書・律法の書を持っているのはとても珍しいことで、普通のシナゴグでさえ聖書があるのは珍しいこととされていた。小アジアやギリシャを旅した使徒パウロについて読むと、安息日ごとにシナゴグに行くと、彼はしばしば律法の書を読んで説教をするようにと頼まれいたというエピソードを目にする。

これは今日、クリスチャンに完全に無視されている現象だ。クリスチャンの兄弟姉妹たちの最も真刻な問題の一つは、彼らは教会で御言葉に関する理知的な質問について教えられておらず、それらに取り組んでいないことだ。聖書から知的で困難な質問をすることは、総じて推奨されない。それならばいったいどうして使徒パウロは、到着したばかりの町で安息日にその土地土地のシナゴグに入り、即座に律法の書を読んで説教するように勧められたのか。

「そして律法の書と預言者の書を読んでから、シナゴグの管理者たちが彼らを送り出して言った事は、「兄弟たち。あなた方のうちどなたか、この人たちのために奨励の言葉があったら、どうぞお話し下さい。」

使徒行伝 13:15

特に興味深い記述がある。

兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。2人はそこにつくと、ユダヤ人の会堂に入って行った。ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心に御言葉を聞き、果たしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。
その中には、ギリシャの貴婦人や男子も少なくなかった。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神の言葉を伝えていることを知り、ここにもやって来て、群集を先導して騒ぎを起こした。そこで兄弟たちは、直ちにパウロを送り出して海辺まで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。

使徒行伝 17:10-15

さてこの安息日から再び創世記から順に読み始めるのだが、聖書全体で最も重要で、基礎となる箇所が創世記1章1節だ。

 「初めに神が天と地を創造した」

ヘブル語では、これは7つの単語で成っている。聖書が7つの言葉で始まると言うのは、偶然ではないだろう。そしてこの7つが、聖書全体の神の言葉の中で最も重要な言葉とも言える。

ちょっと考えてみよう。
「イスラエルの神」という句は聖書の中に、203度出てくる。そんなこのイスラエルの神が、アブラハムとその子孫を選び、偶像礼拝を取り除くための道具として用い、神の知識を地の果てにまで広げ、人類に互いに愛し合うことを教え、権力と富を持つ人と同様に盲目の人や耳の聞こえない人にも愛し敬うように教えられた。それが天地を創られた神なのだ。 

この創世記1章1節が教え確証することは、以下のようにまとめられる。 

  1. この世界は霊とまことである神によって創られた。神はイメージ・形を持たないので、神殿も記念碑も神を模した彫像も必要ない。

  2. この世界にあるものはすべて、極小のものから膨大なものまで、創造主によってデザインされ、計画され、そして求められた故に創造されて存在しており、すべてがこの世界にとって必要性があるために存在している。

  3.  創造主は、私たちの住むこの小さな惑星である地球のみを創造されただけでなく、全ての宇宙(太陽系)を創造された。このことは私たちの神が、小さな人間である私たちには想像できないほど、ずっと大きな方であることを意味する。この世界と私たちを創造された方は、私たちを人として、アダムとイブの子供たちというひとつの血統として創造された。
    「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(使徒行伝 17: 26)
    この聖書箇所が私たちの世界に与える重要性には終わりがない。もしクリスチャンがこの聖霊による御言葉を信じていたならば、人種差別も、反ユダヤ主義も、他民族に対する人権侵害も起こらなかっただろう。その上、この世界における私たちの生活は、もっとずっと快適で、兄弟愛に満ちたものとなっていただろう。

  4.  もしこの世界とその中にあるすべてのものを神が創られたのでなかったなら、創造主が他にいることになる。それは私たちの世界も私たち自身にも意味がなく、単に宇宙の偶然に過ぎないことを意味する。そしてもし私たちが単に宇宙の偶然の結果であるならば、すべての道徳性や、礼儀、正義、正しいことや善悪、権利などはすべて無意味なものと化す。
    そうなれば私たちの状態はジャングルよりも劣悪なものとなってしまう。ジャングルには自然の規則と道理があり、動物たちでさえ仲間同士を尊敬する知恵を持っているからだ。

このように創世記1章1節は最も重要で聖書全体の基礎となり、私たちの聖書に対する信仰の根幹となっている箇所だ。この聖句が私たちに教えているー番重要な事は、偶像礼拝者たちが考えているように、神は自然のー部ではない、ということだ。神は自然を超越したところにおられ、自然の外側におられるからだ。

創作をする人ならだれでも、またどんな画家やアーティストでもそうだが、自分の作品の所有者であり、また創造者だ。例えば画家であれば、自分の描いた絵に署名や指紋を残してはいるが、自分自身は絵の外側にいる。それと同様だ。
もし創世記1章1節がなかったら、聖書全体は全く無意味なものだ。

今に至ってさえも、これは最も難解で奥深い御言葉である、本当の意味で理解し咀嚼するのは容易ではない。
パラシャ(モーセ五書の通読)は進んでいくが、引き続きこの御言葉を瞑想し続けよう。そうすれば信仰と力強さを持って、この人生を過ごすことができるだろう。

ヨセフ・シュラム師(ネティブヤ)

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