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わたしから離れない呪い ~川上未映子『黄色い家』~
川上未映子『黄色い家』を読み終えた。
生きる人は皆猶予の中にいるけれど、その猶予をあくまで自分としてどう生きるのか、その切実な問いを真っ正面からぶつけられた心地がしている。
■居場所がない
物語の後半。花がPoint of no returnを越えた頃。
彼女は汗水かいて働き、彼女を非難するであろう人間達に向けて叫ぶ。
“いったいどこでその汗水をかいているんですか?”
汗水かいて働けるひと。彼らが皆確保している居場所。
この物語は、そうした居場所なき人々の物語ではないだろうか?
物語の中で、花はその居場所を探す猶予すら与えられず、猶予すらも金でこじ開けなければならなかった。
人は生まれ落ちて歩んできた環境を呪うことがある(ここでいう環境は自分自身の身体も含む)。
その程度は様々で、黄色い家の登場人物たちは黄美子を除いて皆強い呪いを抱えている。
そして、その呪いはいずれも、苦しくなるほど共感性の高い呪いだった。
■呪いと私
前半で語られる花の育った日々は行き場のない閉塞感で溢れている。
絵に描いたような貧困家庭であり、その段階で既に限界感が漂う。
しかし、花の呪いはそれだけでは済まない。
更に恐ろしいことに、無垢で一見憎めない母が、彼女から呪いへの”怒り”すら取り上げているのである。
怒ることも許されない。
その息苦しさは計り知れないもので、読みながらところどころ耐えられなくなった。
蘭の貧困から来る選択肢の少なさ、桃子の個を徹底的に殺される日々や容姿へのコンプレックスも、出口のないものだ。
映水さんが“彼の今”を花に見られた際、言い訳のようにして語る過去も居場所の無さが強烈に漂う。
人間が作り出した“血”という偏見が居場所を壊していく様は非人間的でやるせない。
どの呪いも、実際に世界に溢れているし、過去から繰り返し世界の歪みとしてあぶり出されてきた。
それに対して、当事者は悲鳴を上げ続けているが、今も止むことなく続いている。
ヴィヴさんがいうように金を持つもの、場所を持つものたちのルールが機能している限り、持たないものはボコボコに殴られ続け、金を奪われ続けていくのだろうか?
このルールの絶望さはヴィヴさんに語られるまでもなく、幾度も金を、関係を失っていく花の人生が語ってしまっている。
ルールこそが呪いの根源なのかも知れない。
一方で、厄介なことに人は呪いと自分とを切り離すことができない。
呪いは、いかにそれを人が忌避しようとも、自分が自分である根幹と接続されており、それを切り離すには文字通り死ぬか、自分自身を殺して生きるしかない。
完全に呪いと関わる記憶たちを私たちの脳内から切除できるなら、私たちは自分自身を殺して、呪いのない新しい自分を獲得できるだろうか?
それは無理だろう。
完全に呪いを取り除いた新しい自分はもはや自分ではない。
同じ身体をもって、自分と地続きの時間を生きていたとしても、もはやそれは別人なんだろう。
切り離してしまえば、呪いとつながっていた自分は死んでしまう。
結局、私たちは生きる限り、呪いを抱え続けなければいけないし、それへの嫌悪を抱えたまま生きなければならない。
■切断か猶予か
物語において、桃子と蘭は呪いを完全に自分たちから切り離す道を選ぶ。
フィクションで象った新しい自分を信じ込み、解散と共に歩き始める。
自分たちの新しい物語をなによりも優先するため、現実とフィクションの間の齟齬は都合良く黄美子さんに押しつける。
しかし、その道の未来は幸せなんだろうか?
冒頭で再開した蘭のことを思い起こす。
そこにいた蘭は過去の蘭とは別人であり、むしろ、昔の桃子に近しい印象を覚えた。
あの頃の蘭が見せていた柔らかい共感性のようなものは年月をかけてすっかり失われてしまったようだ。
ともすると新しい蘭の世界ではその柔らかい共感性のレプリカは稼動しているかもしれないが、それはどこまでもレプリカでしかないだろう。
映水さんやヴィヴさんはどうだろうか。
二人は呪いを捨てはしないが、金という猶予に縋り続けるじり貧の日々を選ぶ。
映水さんが追い込まれた際に見せた金への執着が彼の文脈から違和感をもって浮き出ている。
いつも何処か冷静に呪いを見つめる映水さんが見せた焦りや執着は猶予への依存を感じさせた。
ヴィヴさんもバカラの向こうに死を見据えているように構えていたが、結局金を持ち逃げした。この土壇場の逃避は死の猶予に他ならないだろう。
猶予に未来はあるんだろうか?
ふと、猶予を選び続けた先輩として、エンさんの姿が思い浮かぶ…。
では、他に道はあるんだろうか?
花の母はどうだ?
彼女は桃子や蘭のように無理矢理世界を改変させているようには思えない。
彼女の中には自然と呪いを寄せ付けない物語が流れているようだ。
しかし、彼女がこぼれ落とした呪いはどこにいったのだろう。
それは決してなくなっていない。
彼女の瞳に映らない呪いは、花の呪いとなって花を苦しめ続けている。
彼女はそこに意図はなくとも、彼女にしか映らない物語に閉じこもっているのだろう。
■琴美さんという余白
琴美さんはどうだろう。
彼女の過去はほとんど語られないし、彼女の胸の内もほとんど語られることはない。
結局、彼女の呪いだけは決して語られることがなかった。
それでも彼女が強烈な呪いを抱えているだろうことは物語の中で暗に感じられた。にもかかわらず、彼女は彼女で強く自分の場所を見つけて生きているようだった。
その姿に居場所を希求する花は惹かれたのかもしれない。
琴美さんは語らずに、黙々と黄美子さんの傍にいて、クラブで働き続けていた。
そうした居場所がずっと続くならば、彼女は花に道を示す存在足り得たのかもしれない。
しかし、彼女の見つけた場所すらも一時の猶予でしかなかったと物語は残酷に語り始める。
琴美さんはなぜか破滅へ向かう男から離れられなかったのだ。
この離れられない理由はやはり語られないわけだが、
後ろにあるだろう呪いの重さだけがずしりと伝わってくる。
そうした呪いにすっかり足を掴まれていた琴美さん。
彼女は最後、花が想像したように、志訓のもとへ行こうとしたんだろうか?
この点も物語の余白として置かれ、琴美さんの胸の内はミステリー小説のように明かされることはない。
しかし、想像するに、もし本当に花の想像通りだったとしたらば、それはこの物語の光ではないか?
何処か呪いに身を任せて諦観した彼女が見せた前に向けての跳躍であり、鬱々とした呪いを断ち切る可能性のように映る。
だが、彼女の跳躍の予感は死に収斂してしまう。
彼女の跳躍が成功していれば、それは花の喜びにも希望にもなっただろうに、死で覆い隠されたその可能性は、むしろ花に拭い去れない罪悪感だけを残していく。
余白の多い琴美さんという存在。
まだまだ彼女の語られていない言葉を拾い切れていない気もするが、彼女の存在が希望なのかそれとも絶望なのか、それすらもぐるぐる頭の中でめまぐるしくスイッチしている。
■蓋をしない
黄美子さんという存在はどうなんだろう。
彼女は軽度の生きづらさ(WAISだとか単純な定規で測ってしまえば彼女は軽度のIntellectual Disabilityとなるのだろうけど…)を抱えるも、その生きづらさを自覚せずに生きる存在の様に思えた。
したがって、はじめのうち、彼女は花の生きづらい世界を自覚しないが故にぶち壊したように思えたし、自覚しないが故に桃子や蘭の物語に都合良く利用されたようにも思えた。
けれども、黄美子さんの物語を辿ると徐々にそうではないことに気づく。
及川に苛烈な暴力を振るわれる琴美さんへの対応を巡って花から詰問された際の黄美子さん。
ラッセンの絵でふすまを破壊し、花が蹴られたと思えば桃子の頬を張る黄美子さん。
再会した花にいっしょに行こうと言われてもついていかない黄美子さん。
そこにいる黄美子さんは“生きづらさ”を呪いになんてしていない。
ましてそれを自分から切り離そうともしない。
それに対して怒りもしない。
それのせいで諦めることもない。
そもそも“生きづらさ”を生きづらさという言葉で蓋をすることすらない。
蓋をしない生き方は、過去の自分に蓋をしてはじめて生まれる桃子や蘭にとって、到底認められるものではない。それを認めてしまえば、呪いを切り離した新しい“私”なんて宗教は簡単に瓦解してしまう。
それ故、彼女たちは黄美子さんを自分たちの物語から乱暴に切断して外敵としなければならなかったのだろう。
対照的に、琴美さんや映水さんが黄美子さんの傍に居続けたのはそこに呪いを晴らすものを感じていたからかもしれない。
そんな黄美子さんを思い描くと、新型コロナ下で猶予をわずかな居場所を唐突に削られた花が再び彼女に出会えたのは、とても希望に満ちたエンディングに思えてくる。
風水、夢、黄色い家。
そうした物語をつくり、花は自分の呪いから逃げる必要なんてもうないのだろう。それは呪いなどではなく、胸にちょくせつ流れ込んでくる夕焼けであり、みじかいけれど一辺倒ではない感情がつまった夢のようなものなのだろうから。
そして、花はこの先も歩き続けることができるのだろう。
私の中で『黄色い家』はこんなふうに再生された。
読む人間の数だけ『黄色い家』はあるのだろうから、誰かの花と私の読んだ花は重ならないだろう。
私自身、また時間をおいて読んだら、読む自分の中身が変わっているせいで違う『黄色い家』を読むことだろうし、今再生した物語は、その時には失われている。
それでも私のとても深いところにこの物語が入り込んできて、切れていた回路やこんがらがって行き先のわからなくなっていた回路をつなぎ直してくれた気がする。
こんな読書体験なかなかないわけで、本当にこの本を読んでよかった。
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