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わかることがはっきりしないスタンダールの「赤と黒」

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 スタンダールの名作「赤と黒」の主人公ジュリアン・ソレルとはどんな人物でしょう。
 彼は、木材製造を家業にする一家の末息子です。「赤と黒」の舞台になった時代のフランスでは、ジュリアンのような家業を継げない男子が順当に人生を歩んだ場合、家の仕事の取引先の何番目かのお嬢さんと親の言うままに結婚させられて、貯蓄は無くても食べて暮らせるその日暮らしに落ち着きます。もしくは運が良いと、家の仕事を手伝う隙間で知り合った、パン屋かなにかの手伝いをする若い娘と好意になって、親元を離れて好きな人と部屋を借りて生活する夢くらいは叶えられるかもしれません。財産の無い家に生まれた末子が歩む人生は、多少の差はあれどそうと決められていた時代です。
ところが、ジュリアンは天使のような見た目と、突出した暗記力を持って生まれた少年を抜けきらない青年です。正しく磨けば立派に育ちそうな社会の有望株で、生まれもった個性は世間受けに恵まれていました。
 ジュリアンが財産のある家に生まれていたなら、或いは一家の長男であれば、ジュリアンは生まれた環境で自分の才能を活かす方法と出会えたかもしれません。しかしジュリアンの生まれた環境には、ジュリアンの才能を伸ばす手助けになるものは一つもありませんでした。しかしそうは言っても、不幸中の幸いにジュリアンがいるのは、ナポレオンが凋落してから久しく経っていないフランスです。街の公共施設に飾られたナポレオンの肖像画の絵具はまだ新しく、時代に合った額縁に収められた英雄を見た多くの若者達が、地位を得て国家の中枢に近づく自分の将来を夢見ていました。
 ですから、ジュリアンが自分の生い立ちを凌ぐ目標を掲げて、過分な野心を満たすために家を飛び出したのは、とても自然な成り行な気がします。国家に認められる手順で自分の価値を高めようとしたのは、なにもジュリアンだけではありません。実際の19世紀初頭のフランスに、ジュリアンと似た感覚で同じ思いを抱いた若者が大勢いました。かれは他の全ての若者達と同じように、現実の壁に阻まれて夢を叶えないまま人生を終えましたが、才能に恵まれていた人物であったことは間違いありません。彼には、天使のような顔がありました。生まれた環境にそぐわない、優気な立ち居振る舞いは天性のものでした。クールな表情で仮面を作り、自分よりも立派な相手を凍り着かせたのは持って生まれた性格でした。控えめなあどけなさを沢山の人に可愛がってもらったのは、環境に迎合しない気質だったからで、その気質が彼を自ら信じた信念に従わせていました。死ぬ間際まで純真な感性を失わなかったジュリアンの心は、ジュリアンが世間の汚れから必死に戦いながら守っていた、唯一の彼の持参品でした。
 ジュリアンが虜にした人の目には、彼は空の飛び方を知らない雛鳥のようにも、世界の間違いを正す崇高な賢者のようにも、悪魔の心をした冷酷な天使のようにも映りました。たくさんの人の心に映り込んだジュリアンの魅力は全て生まれ持った能力でした。ですが多分、彼は自分が神様からなんのギフトを受け取ったか、知らないまま死んでいったのではないでしょうか。
 ジュリアンは「赤と黒」で作者のスタンダールに人生を支配されています。頼りにならない権力者たちが溢れていた19世紀のフランスとは関係なしに、主人公の一生は作家が物語に合わせて決定づけた運命に従って決着されます。自由意志を人生に反映できないジュリアンには、生きている人間の人生(リアルライフ)と同じ不自由さがあります。一方で、創造したものを思いのままの意図に従わせる作者のスタンダールの創造(クリエイション)には、ジュリアンを不自由にも自由にもできる楽しさと自由な選択があります。ジュリアンとスタンダールは、ともすれば上下関係が発生する互いの性質を打ち消し合うことも、混ざり合うこともなく、それぞれの性質を失わないまま重なり合って、「赤と黒」を共作しています。
 「赤と黒」は専門家が知的財産に認めた、世界の十大小説の一作です。ですがそうした評価以上に、スタンダールがなにを赤としてなにを黒としたか、分かるまで読み続ける付き合いで小説を知ることができるので、絶対に読むべき一冊に選ばれるのではないでしょうか。

「わかることがはっきりしないスタンダールの「赤と黒」」完

©2023陣野薫

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