no.6 表現の壊死

海外に行くにあたり最近、英語の勉学に励んでいる僕です。早くも疲れたよ。日本人が英語の習得に苦しむ理由の一つとしてシャイだから、というのがあるらしい。全く元も子もないことを言われて困ってしまうね。同時にインプットを重視してしまう節は確かにあると感じる。rpgゲーの序盤、チュートリアルで出てくる敵のドロップアイテムを何かの役に立つかもと集めまくったり、経験値が大しておいしくも無い敵でレベリングしたりとか、そう言う無駄な周到さが我々にはある。インプットの話とは若干ズレているがね。要は、我々は臆病者で真面目すぎるという訳だ。いい加減さというものの重要性に今一度気付かされる。

インプットアウトプットの話で彷彿としたのが、日本の表現、その物の足取りが良く無いのもそのせいかとよく思う。表現というのは、多岐に渡るが分かりやすく言えば、芸術作品全般である。僕自身、あまり知識豊かでは無いが、少なくとも日本の文学や、バラエティ、映画は壊死している。なんだか誤解されそうだな。というのも、責任の所在は表現者には無いのだ。そういう時代になってしまった事を嘆く他ない。ある種、それは文明の力なのかもしれないね。話を戻す。どんな業界にも存在するだろう、「通」を気取る偉そうな連中が「日本の表現は遅れている」と話すが、その本質は、アウトプットを避ける日本人の性質にあるのだ。

そもそも、表現とは内面的な心情を外面化する事だが、昨今流通している作品の根底にはエンターテイメントがある。これが日本文学を壊死させた理由である。今や、壊死させた最大の要因すらもまた壊死しつつある。そもそも、表現をコンテンツとして扱った時点でそれは死亡フラグの様な物だ。あぁ、この話は辞めよう。こういう話をすると酷い徒労感に襲われる。要は表現の根底は自由でなければならない。自由であるが故に美しく、故に、惹きつけられ、故に、力を持つのだ。今の日本には微かな残穢と醜い商業意識しか無い。そう言えど、真の意味で自由に表現できる者なんて遠の昔から存在していなかったのだろうけれど。

ps.元々書こうと思っていた文章が途中からつまらなく感じて強引に路線変更した。適当になっちゃったなぁって思ったけど、日記だからいいよね。


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