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愉しみかたひとつ。

先日、時計を3本売った。

自分のお金で初めて時計を買ったのは、大学4回生の冬。
その時に買った時計は、オメガのスピードマスターの裏スケモデル。

それからだいたい3年おきに、時計を買ってきた。

ロンジンのリンドバークモデル復刻版で、世界限定1000本シリーズの1本。
ホイヤーのカマロで、私が生まれた年代に生産された、初の中古時計。
パネライのルミノールの中古時計で、初の自動巻き時計。

パネライを買ってからは、時計は買っていない。
パネライの後の時計を買うための、お金を貯めていたから。

気づくとステータス(年齢、年収など)が上がるように、
  時計の購入価格も上がっていった。
欲深くなったのか、強欲になったのか、よくわからない。

人にこの話をすると、怪訝な顔をされる。
時計に興味のない人ほど、怪訝な顔をする。
私は車には一切興味はなく、
  車を乗り変えるのと同じような感覚だというと、納得される。

そこまで好きでコレクションしていた時計を、
  以前は必ずどこに行く時も、腕にはめていた。
しかし、最近は時計をはめなくなった。
時計がなくてもスマホがあるからか、特に不便を感じなくなった。

いや、それだけではない。
時間に縛られている感覚が、突然嫌になったからだろう。

いつからか、あれほど深かった強かった所有欲、コレクション欲が、
  嘘のように一気に薄れて流れていった。

欲とは、人を縛りつけるものかもしれない。
その欲がなくなったから、時計をしなくなったのかもしれない。
タイミング的には合っている気がする。

もしも突然この世からいなくなったら、
  コレクションしたものがどうなるのか気になりだした。
時計に、洋服に、本。

なぜ、そう思ったのかはよくわからない。
不安が襲った訳ではなく、何となくふと思い、手放そうと決めた。

と思って数ヶ月経って、ネットでは調べたけれど、全く行動に移さない。
どこかに、「まだ持っていてもいいのでは。」という
  思いが在ったのかしれない。

ただ、「えーい」と勢いよく助走して、時計を売りに行った。
あまり価格のことを気にすることなく。
これぐらいだったらいいか、というラインに近かったので、即手放した。

家に帰ってから突然、価格が適性だったのか気になり、調べていた。
今までなら調べてから行動していたので、珍しく順番が逆転していた。
そう、何も考えていない証拠だ。

実は、たまに後先考えずに行動する。
本当に大事で大切なときほど、直感で考えるよりも先に動いてしまう。

調べれば調べるほど、もう少し、高く売れたかもしれない
  という気持ちが少し沸き立った。
しかしすぐ、炭酸が消えるように、立ち消えていった。

以前のように、数店舗回って買い取り価格が高いところで売ればよかった。
以前のように、一店舗だけでも価格交渉をして上げることもできた。
今までなら間違いなく、1円でも安く1円でも高く、
  価格交渉という駆け引きを楽しんでいた。

でも何もせずに、いろいろ話を聞いて売った。

一瞬、高く売ればよかったと思いつつ、まぁいいかと思っている。
暑かったから、回るのが嫌だったのかもしれない。

ただそれ以上に、所有欲がなく、身ぎれいになりたかったのかもしれない。

今までは、何でも「あったらいいなぁ」という欲があった。
もしもの場合を考えて、ストックという予備を常に必要としていた。
この予備があることで、安心していた。

でも今は、「もう十分」という思いに変わった。
十分だから、それ以上を求めなくなった。

「ない」と思ってしまうから、欲が沸き立つ。
「ある」と思うと、欲はたちまち消えていく。

欲がないことはいいことだ。
ただ困ることもある。
欲がなくなると、それ以上、今日以上のことを求めなくなる。

さてさて、それがいいのかどうか。

なかなか難しい。
でも欲がなくなったからか、身も心も身軽になった。
得体のしれない重さに押しつぶされるような、思いはない。

欲深さが薄れたからか、次は本を、洋服を手放そうと思う。

今まで手放すことが怖かったけれど、
今は手放すことを愉しむようになった。
これは大きな成長だ。

さて、これから何を手放していくのだろうか。
そして、何を新たに手にするのだろうか。

楽しみがどんどん増えていく。
考え方、姿勢、態度をほんの少し変えるだけで、楽しむことができる。

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