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感じきること


          〜アラカンでわかったこと〜

人生忙しく毎日を過ごしていると、自分の存在がおざなりになる

少々、意味不明に感じる部分があるかもしれない。
ただ、いろんな人生を歩んでくると、このような境地に陥ることもあるということを知っていただけると嬉しい。年配の方々が微笑みながら世情を見ている、その境地に似ている感じもする
「ああ、この感じかー、と」

<宗教の話ではない>
「出来事に色(良し悪し)をつけている
色をつけているのは自分」

般若心経

「出来事に意味はない
意味をつけているのは自分
ただ、出来事でしかない

全ては空(何もない)
何もないところに色をつけると感情が出てくる
感情があると安心する。
良いにつけ、悪しきにつけ自分の存在を認められる。
誰に?
自分が自分に!」

自分なりに解釈をしてみた。

この感情を感じ切らないで留める(我慢する)を続けると
感情がなくなる。
つまり、感じなくなる。

感じなくなると日々何が起きているのかを冷静に見ることができる。
これを中庸という。
この中庸を長く続けると悟りの境地に達しやすいのだが
ある地点でどちらを選ぶのかの選択を迫られることになる。

そう、どちらかしかない(経験では)
人生を楽しんで「感じる」ことを選ぶのか
人生を淡々と過ごし「鑑賞者」を続けるのか

しばし「鑑賞者」を数年続けてみた。
悟りの境地の感覚は認識したが、陰にも陽にも振れないので何も変わらない。
スピ系でいうところの「引き寄せも」もちろん起きない。
素晴らしい地球と宇宙と自然界、人間界は認識もできるし、人との関わり方も何が必要で何が不要かもわかる。人に手を出すとどうなるかもわかる。でもそれでは面白みもなく、人助けもなく自分助けもないのである。ちょうど仏様のように微笑みを浮かべて「見守る」「祈る」のいうことのみの境地に達する。
これを続けると、聞かれることには答えるが、聞かれなければ答える必要がない。言い方を変えよう。その人の成長のために聞かれるまでは答えてはならない。ということが明確にわかる瞬間が来る。それがずっと続くのである。
それを続けるのもよしだけれど、今、わたくしは肉体を持って生きている。なのでこの肉体を生かす必要がある。
生きていくために肉体が肉体であるべき機能を果たすのが今の役割。となると「鑑賞者」である位置から「感じる(生きる)」に変換した。
そこからこの肉体と精神と魂を生きることと活かすべく方法を探りはじめた。

出来事に意味合いをつけることで「魂の成長がある」
ただし、そればかりに囚われると陰陽のバランスが崩れるので現実を見る必要がある。
現実とは五感を感じて生きることである。そして感情を「味わって」生きることだ。

感情を味わうには(前項でも書いた)感情を止めずに感じきる。すると陰が消え中庸になる。
陽の時も同様である。その場で感じきる。
ただ物事や引き寄せを使うには別の方法が必要になるようである。

「引き寄せ」が叶う人と叶わない人、折を見て実践後に書くこととする。
では、また。


面白い本を見つけたので紹介。
これは年齢に関わらず読んでみると視点が多少上がるようである。
俯瞰できるというか。。。
内容的には神様や目に見えない者の話が出てくる。
しかし、宗教でもなく、支持されるわけでもなく、己がどう捉えるかにもよるかもしれない。
まだ、読み終えていないのだが、よろしければ♪

「五十を過ぎたら読む本」若いときに読むと尚更いいかも♪

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