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新潟での記憶から20年。何者でもなかった僕。

新潟で起きた中越地震からちょうど20年が経ったことをニュースで知った。音楽大学への入学を目指すも、「やっぱりやーめた」と受験当日に大学前の喫茶店に入ってしまったゴミ同然の僕に、素敵な未来を思い描けるわけもなかった2004年の出来事だった。震災のニュースを見て、すぐに新潟に行こうと決めた。社会に属していないヒマな人間がここに余っているのだから、何かしらの役には立つかなと思ったからだ。しかし今思い起こせば、自分自身が世間から隔離していたことへの恐れを癒やしたい気持ちも少なからずあったと思う。否定はできない。なんとも自己中心的な理由である。恥ずかしながらここに白状したいと思う。

親から譲り受けた白のステップワゴンの後部座席をフルフラットにして、布団を敷いた。傾いた電柱や浮き上がったマンホールを避けながらようやくたどり着いた小千谷おぢや市の総合体育館前の駐車場で寝泊まりをしつつ、昼は支援物資を山奥の集落へ運び、夕方はボランティア受付の電話番とパソコンへの名簿打ち込みをした。
この地方の人たちは電話で「もしもし」と言うかわりに「ごめんください」と言うんだな、とそこで知る。

ある日、県内外から集まってきたボランティア希望者の列を整列している時、50代くらいの小柄な女性から呼び止められた。宮城から来たというその女性は、要望の書かれたホワイトボードに貼ってある「散髪できる方数名」の紙を指さして「何でもやるつもりで来たけど、わたし床屋だから。道具は持ってきたけどね」と言うので「今すぐ一緒にやりましょう」と彼女の手を引いて総合体育館の入口前に行き、パイプ椅子を一つ置き、その日のうちに散髪コーナーを開いた。
僕に「お兄ちゃん、お湯だけ用意してくれな」とぶっきらぼうに言うおばさんだったが、袋からハサミを出して「ほら、座りな!切ってやっからサ」と促している姿を見て、めちゃくちゃかっこいい人だなと思った。

お湯を汲んできては蒸しタオルを作るという係に慣れてきた頃、今度は北海道の苫小牧とまこまいから来たという体格の良い男性が散髪コーナーに近づいてきて「横でやってもいいかい?」と聞いてきた。北海道で数店舗を経営する理容室チェーンの社長だという。
それから数日間はその二席で散髪コーナーを回していたのだが、ある日、何を思ったのか社長が「一度北海道に戻るが、すぐにまた来る」と言い残して消えた。
数日後、巨大なキャンピングカーに乗って戻ってきた社長は「これならここでお湯沸かせるべ」と言い豪快に笑った。それからはそのキャンピングカーで山奥へも出張するようになり、いくつかの集落や、お隣の長岡市で散髪をした。
最終的に小千谷での散髪コーナーの席数は3つになった。

小学3年生の頃、作文で「社会福祉協議会会長賞」という長い名前の賞をもらったことがあり、その賞状をもらうために初めて行った市の施設からの帰り際、「こども手話教室」と書かれた部屋に気づき、僕はおそらく恐れもせずに入っていったのだろう。先生をしていたお姉さんに「”北海道”はどうやるの」とか「”水”は?”ジュース”は?」と質問攻めにした記憶がある。(蛇足ながら、やはりバカ盛りの小学生男子であるので、使いたがりな下品な言葉も聞きまくり困らせていた)
福祉の観点ではなく、単に言語として”おもしろい”と思った僕の手話への興味は、不思議なことに衰えることなく続いたのだ。当時の丸山キャスターによる手話ニュースを見て、新しい単語を覚えることを楽しむようになった。

そんな経緯もあり拙いながらも日常会話くらいなら手話が使えた僕は、ある時から避難所での館内放送があると、散髪の手伝いを中断し、ろうの避難者に内容を伝えることを始めた。
話の流れで、そこに居た小学校高学年のろう者の男の子を自宅に送ってほしいと言われ、彼を助手席に乗せ、送り届けたことがある。当然、彼による道案内も手話なのだが、運転中にじっと彼を見ることはできない。それでも彼はどうにかして僕と話をしようと、しきりに手を僕の顔の前でひらひらさせて注意を向けようとしていた。「運転中!あぶないから!」と言った僕を笑っていたあの子も、今は30歳を超えているだろう。元気にしているだろうか。

三重県の伊賀市から来たというボランティアの男性が、ろう者だったことには驚いた。たしかラジコン飛行機が趣味で、ろう者仲間と一緒にラジコンを楽しむためにたくさんの新しい手話を作った……という話を、深夜の駐車場に椅子を並べて聞かせてもらった。「ろう者は障がい者だから、基本的にボランティアを受ける側だって世間が決めつけてしまうことが、そもそも違うと思わないか」と彼は言った。

ある日、散髪コーナーに来たご婦人が遠くの山を指差して「山頂が白くなったわね」と言った。ご婦人の説明では、その山の頂上が白くなるというのはそろそろこの辺りでも雪が降りはじめる、という合図なのだそうだ。
スタッドレスタイヤを持っていなかった僕は、1か月程居た小千谷から帰ることを決める。
新潟の皆さんにはこれからもずっと、安心して過ごしていただきたいと願うばかりだった。

ここに書きにくい体験もいくつかしたが、何かを批判したり是正させたりする文章を書きたいつもりではないのでやめておく。非常時、混乱の中、スムーズに物事を進めるのは本当に難しいんだなと身を持って知ったと思う。
いろんなことを思い出した機会だったのでここに脈絡もなく書かせていただいたが、あの体験は今の自分を形作る要素の一つになっているように感じる。あの散髪コーナーは、僕がこの社会で初めて設営した「会場」だったのだから。


震災から13年経った2017年、改めて小千谷を訪問したのだが
避難所となっていた施設にあったアルバムに、当時の様子が写真に残っていて驚く。

「よろこば(れ)ていた」

と言う文字を見て、グッときた。

一番右が苫小牧の社長
一番左が宮城の女性
中央は関東から来た男性
倉庫に作った簡易的なボランティアセンター
僕は中央奥でパソコンを打っている

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