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『すずめの戸締まり』は、ひたすらに優しい、僕たちへの願いだ。

©︎2022「すずめの戸締まり」製作委員会

僕たちがどれだけ苦しくて、失意のどん底にいて、もう立ち上がれそうにないと思ったとしても、この世界は図々しいくらい無慈悲に明日を連れてくる

この間、大学で知り合った友人と『反出生主義』について話すことがあった。概略を述べると、これは「生きることに苦しみは必ず付随するため、生まれてくることは悪いことである」とする考え方である。
理解できるし、納得もできる。けれども、その言葉は僕の心を一切波立たせないまま通り抜けていってしまった。要するに、『響かない』のである。その理由は、当の僕自身にもいまいちわからなかった。結婚や出産といったものに対して実感がないからかもしれないし、根本的に出生というものに興味がないのかもしれない。
そんなこんなで、自分の感情をうまく言語化できずに困っていたのだが、僕はこの映画を見て、その回答を思いついた。

僕はたぶん、自分が生まれるべくして生まれたんだと信じたいのだ。
逃れることができない苦しみの中でも、僕はきっと「生きていてよかった」と心の底から思いたくて、いつか来ると信じた、その一瞬のために生きていきたいのだ。

そう思えるようになったのは、僕を支えていた漠然とした価値観を、この作品に込められたメッセージが言語化し、強く肯定してくれたからなんだと思う。


前置きが長くなってしまったが、現在公開中の映画である、新海誠監督の『すずめの戸締まり』を鑑賞してきたので、感じたことを書き綴っていこうと思う。
稚拙な文章であるが、そのどこか一文があなたの記憶に残ったとするなら、これ以上の幸せはない。

※以下、本編のネタバレを含みます。未視聴・未読の方は、ぜひ初めに自身の目で、作品をご覧になってほしいです。






この作品に込められた『願い』

『すずめの戸締まり』鑑賞後、自然と浮かび上がったのは、「ああ、なんて優しい願いが込められた映画なんだろう」という思いだった。

僕はこの作品を、終わってゆくものを悼み、生きてゆくものを肯定する物語であると解釈している。

各地にある廃墟を訪れながら、そこで暮らしていた人々の息遣いに耳をすまし、人の死を悼むのと同じように、終わっていった土地を悼む。
本作品では『閉じ師』という架空の仕事を通して、『戸締まり』を災いを防ぐために行われることとして描いているが、その過程の中には、こういった「終わってゆくものへの想い」が基盤として内包されているように思う。

そんなテーマを軸としているからこそ、『すずめの戸締まり』には、キャラクターの持つ死生観が垣間見えることがある。

鈴芽は愛媛で『戸締まり』を行う際、草太に「死ぬのが怖くないのか」と問われ、「怖くない」と力強く言い切る。僕は初め「鈴芽は勇敢な子だ」くらいにしか思わなかったが、後に彼女のその言葉は、『生きるか死ぬかなんてただの運』という、若い女子高生にはあまり相応しくないであろう死生観から成り立っていたことがわかる。
しかし、鈴芽は『戸締まり』の旅をしていく中で、草太を要石として刺してしまうという出来事をきっかけに、『大切な人がいない世界』への恐怖を抱くようになる。『常世』で要石となった草太を助けようとするシーンでは、初めは自分が代わりに要石になることを厭わなかったが、草太の「生きたい」という想いに呼応して、鈴芽も自身の想いを吐露する。

「私だって、もっと生きたい!声を聞きたい。ひとりは怖い。死ぬのは怖いよ──草太さん……!」

新海誠「小説 すずめの戸締まり」角川文庫

死ぬことを厭わなかった鈴芽が、「生きたい」と願うようになった。では、鈴芽の死生観は草太との出会いによって塗り替えられたのか?その表現は少し不適切で、きっと鈴芽は、忘れていた想いを「取り戻した」のだと思っている。

前述した通り、鈴芽は草太と出会う前から、『生きるか死ぬかなんてただの運』という自分自身の価値観を持っていた。また、鈴芽は過去の記憶を心の奥底に閉じ込め、思い出さなかった。鈴芽はそういった形で母親の死を受け入れることができていて、たくさんの人に支えられながら今日まで生き抜いてきた。
極論だが、「なんとかなっている」という意味では、岩戸鈴芽の問題はこの時点で既に解決しているとも解釈できるのだ。

しかし『すずめの戸締まり』は、鈴芽が記憶の奥底に閉じ込めてしまった深い悲しみを、あくまで彼女自身の手で「取り戻さなくてはならないもの」として描いている。事実上の死へと向かっていく草太を救おうとする鈴芽には、大切な人を亡くしたという過去と向き合う必要性があった。そしてそれは、彼女が『これから』を生きるために必要なことでもあった。

自分がどれだけ暗い闇の中にいようと、立ち止まり続けることはできない。こちらの事情などお構い無しに世界は回り、現実を押し付けてくる。
つまるところ、僕たちはこの理不尽な世界に生まれた以上、苦しみと闘いながら前に進み続けるしかないんだと思う。

しかし『すずめの戸締まり』は、生きることを絶望とは決めつけなかった。
その想いは、16歳の鈴芽から4歳のすずめに向けた"エール"に全て詰まっていると僕は思う。

「大丈夫、未来なんて怖くない!」
「あなたは、光の中で大人になっていく」

新海誠「小説 すずめの戸締まり」角川文庫

今は絶望の淵にいるとしても、きっと、あなたの未来は明るい。だから、明日を生きてほしい。

僕たちが見届けた『すずめの戸締まり』という物語は、鈴芽たちが生きる長い日々の一部始終に過ぎない。彼女らの物語は、ずうっと前に始まって、ずうっと先まで続いていくのである。僕たちの生きる日々も同様にそうなのである。

ひたすらに優しい、『これから』を生き続ける僕たちへの願いが、この作品の中にはあったと感じている。


『戸締まり』とは何だったのか

前述したように、本作品における『戸締まり』とは、災いが起きるのを防ぐために行われることである。僕たちが現実で行う『戸締まり』も、空き巣などに入られないようにするために行うということを思えば、本質的には似たものであると考えられる(災いというと大袈裟かもしれないが)。

では、なぜ『戸締まり』がこの作品の題材の一つとして取り入れられたのか?この作品の中には、『戸締まり』という話の軸に関連して、キーワードとなるフレーズがあった。
それが「行ってきます」だ。

本作における扉の奥とは、自分自身の心の中のようなものとして描かれているように感じる。そこにはかつての楽しかった記憶も、忘れたい辛い記憶も存在していて、「ずっとここにいられればいいのに」というような心地よさがあるのではないかと思う。

だが、「行ってきます」は、そんな安らぎの空間からわざわざ外へと出ていくことを意味している。
なぜ僕たちはそんなことをするのか?それはもちろん、明日を生きるために必要なことだからだ。

本作品の中で描かれた『戸締まり』とは、生きるため、そして前に進むための準備なのだと思う。
抱えている行き場のない気持ちに見ないふりをしていては、それはいずれ大きな歪みとなって前に進もうとする自分に襲いかかる。だからこそ、きちんとそれと向き合って、「もう大丈夫」だと確認しなければならない。作中の鈴芽は、「環と過ごしてきた時間」「母親の死」「草太という存在」といったものに抱く、自分の想いをひとつずつ確認していき、はっきりとした答えを出す。それができたからこそ、彼女は『常世』へと続く扉を見つけることができたのだと思う。
(作中では、そういった過程を『ミミズ』と『戸締まり』というオリジナルの要素を使って、比喩で表現しているのではないかと考えている。)

僕たちは家を出る時、当然のように扉を閉めて鍵をかける。そして、自分の気持ちとしっかり向き合い、確認する『戸締まり』も、自然に行ってきたことであるといえる(それが全くできていなければ、僕たちは既に作中の『ミミズ』のような強大な負の力に飲み込まれているだろう)。
だから、この旅は波乱こそあれど、鈴芽たちが前に進むために必要だった、当たり前のことをしただけの旅だったのではないかと思う。


おわりに

『すずめの戸締まり』は3.11を題材にしているが、これは極めて扱うのが難しい題材だ。しかし、敢えてこの題材を選び、過去を生きた、そして未来を生きる人々への強いメッセージ性を内包した作品に昇華させた手腕は、見事といえる。同時に、この作品はまさに「今」、世に出されるべき作品であったとも感じる。あれだけ大きな傷跡を残した出来事も、少しずつ、少しずつ人々の記憶から薄れていき、歴史上の出来事になっていこうとしている。だからこそ、こうした過去と向き合うきっかけとなる作品は貴重であると思っている。

自分語りになってしまうが、僕自身も現在人生の過渡期に立たされているという自覚があり、突として将来が不安になることがある。だが、この作品で描かれた前に進もうとする人々と、彼女らの行先の無事を祈る人々の姿を見て、僕自身も「いってらっしゃい」と背中を押してもらったようだった。
いずれにしろ、生きるしかないのだ。最後に「生きていてよかった」と思えるように、明日もしっかりと『戸締まり』をして出かけようと思う。


それでは、行ってきます。


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