【小説】窃盗と5の高さ


 風とオレンジの町と言われていた。カラリと暑い日に、薄っすらと汗ばんだ肌を撫でていく風が通り抜けると、この町の人たちは「オレンジが磨かれている」と言って目を細める。目を細めるのには2つの理由がある。1つは風に舞う砂ぼこりから目を守るため。もう1つは、貧しい者の粗末な姿を視界に入れないためである。
 市場が一番活気づく時間帯。少年はボロ切れ一枚と砂ぼこりをまとって、オレンジ売りの店先を伺っていた。

 ゴミ箱の中にろくな残飯がなくて腹が減った時、少年は市場のオレンジを盗む。別にこの少年に限った話ではない。誰も悪事に手を染めている気はないし、そうやって生きるものだと思っている。群れで盗みをする奴らもいた。もっとえげつない数を盗んでいく者もいた。店主たちは、ガキたちの手ぐせの悪さにため息を漏らしたり、憤ったりするが、どこか諦めている節があった。枝葉につく嫌らしいな害虫や、食べ頃を狙ってかっさらっていく海鳥と同じようなものだと思っていた。厄介だが、どうしようもない存在であった。

 店主1人だけの店を狙うべきだった。そういう店は、おとりを警戒して追いかけてこない。おとりを深追いして店から目を話した隙に、潜んでいた他の子供にごっそり持っていかれた日には、その場で喚き散らすことしかできない。
 年中を通してはびこる暑さに浮かされていたのか、もう1人いた女を見落としていた。ペチャクチャ喋っていた女に、「店を見といてくれ」と言いつけて、店主の親父は猛然と駆け出して来た。これまでガキどもに盗られた分までまとめて取り返そうという形相だった。少年は、行き止まりに追い詰められないように巧みに曲がり角を選んで、路地を駆け巡った。しかしどれだけ走っても、怒号もしつこく後をついてくる。店主もこの辺りの道が頭に入っているのだろう。少年の頭に、逃げ切れないかもしれないという思いが浮かび、捨て鉢な気持ちで普段は行かない高台の方へ逃げる進路を変えた。
 地の利がないので、とにかく夢中で坂道を上る方向に駆けた。もう勘弁してくれというところで立ち止まり、塀に寄りかかりながら、耳を澄ます。荒い呼吸と血管が脈動する音は鳴り止まないが、自分を追う狂った足音はなくなっていた。重力に抱きつかれるまま、背中を塀に擦りながらその場に腰を下ろした。暑い。

 天を仰ぐように視線を上げる途中で、細かく動くものが視界の隅に入った。さっきまでの逃走劇の緊張が一瞬蘇る。なんだ? 目の前には立派な生け垣に囲まれた屋敷。その2階の出窓だった。白い服の少女がたくさんのボールを上に投げては落としていた。投げては落とす。投げては落とす。投げて、しばらく投げ続けて、やがて落とす。そんなことを延々と繰り返していた。落としたボールを拾う時、少女の横顔は少し苦くなりながら窓の枠から消えて、戻ってくるとキッと上を見上げる。少年は、それがジャグリングというものだとは知らなかったが、何をしたいのかはわかった。少女はボールを投げ続けたいんだ。しばらく見とれていたのは、投げ上げられるボールに対してか、投げ上げられるボールを見つめる少女に対してか。

 軌道が逸れて、窓ガラスに当たって落ちた。ボールを拾いに窓べりに来た少女と目があった。少女は対外的にっこりと微笑んだあと、驚きと笑顔が混じった表情でこちらを指差した。そのまま両手を顔の横に持っていき、ボールを揺すっている。このオレンジのことだろうか。盗ったオレンジを指して笑う人は初めてだ。少年は困惑したが、オレンジ泥棒を非難しているわけではないらしい。少女の動きを真似るように、おずおずと両手のオレンジを上げて揺すってみた。少女は和やかな笑顔のまま、左手のボールを1つ落として、右手のボールを投げ、反対の手でキャッチした。そのボールをまた投げて、右手で受け止めた。そして少年の方を見て、首を傾げた。真似をしろということなのだろう。オレンジを左手に持って、投げ上げて、右手でキャッチ。ズッシリとした重みを感じる。そのオレンジを、また投げて、左手で受ける。簡単な動きだが、これであっているのか? よくわからなかったが、少女は何やら喜んでいるので、多分正解なのだろう。今度は、同じ動きを連続で右左右左としばらく続けた。少年もそれに習う。やはり別に難しくない。少女はこちらを一瞥すると、窓の下に消えて、勢いよくジャンプして現れた。両手のボールをこちらに向かって突き出している。そして、おもむろに2つのボールを投げ始めた。ポンポンッ。ポンポンッ。という音が聞こえてきそうだった。少年も同じように2つのオレンジを投げてみたが、あんなにリズミカルにいかない。1つオレンジを投げた瞬間に、なんだが気がせいてしまう。何度も何度も地面に落ち続けるオレンジが少しずつ割れてきて、細かい砂をまとい始めた頃、ふっと窓を見上げると少女はいなくなっていた。砂ぼこりと窃盗の日々に、割れたオレンジの汁が染み込んできた。

 翌日からというもの、朝早くオレンジを盗んでは、逃げる足のままにあの路地に行った。窓の向こうではいつも少女がボールを投げては落としていた。少年が来ると、なぜか少女はすぐに気づいて、微笑んだ。下ばかり見て生きてきた少年の視線は、この路地に来たときだけは上向きになる。進歩なんかとは無縁の毎日だったのに、オレンジを投げていると無意識に前に前に進んでしまい、気づいたら屋敷を囲む茂みの中に身体ごと倒れこんだりした。その様すら少女は笑ってくれた。
 何回も落としてオレンジが割れる頃、決まって少女の姿は消えている。そうなると、割れ目から気が抜けたかのように少年は座り込む。弱ったオレンジに爪を立てて果肉にむしゃぶりつくと、砂粒が口に入りジャリジャリする。それを湧き出るつばとともに地面に吐き出す。少し投げられるようになってくると、その日最高何回続いたかを路地の隅に記すようになった。昨日書いた数字を足で払って消して、より大きな数字を刻む時の満ち足りた感情。生きていくことは崩していくことだと思っていた少年は、積み重ねることの楽しさに気づいていた。乾いた地面に書かれる数字は日に日に増えていった。

 数字が100を超えた翌日、カウントはリセットされた。少年が盗むオレンジの数は4個になった。初めて4つのオレンジを持っていった時、少女は随分喜んで飛び跳ねた。4つのオレンジは、3つの時と同じように投げてもうまくいかない。3ボールは手から手へボールが行き交ったが、4ボールは右手と左手で投げる玉が独立している。全く別の練習をする必要があった。窓越しのレクチャーに従って、右手だけで2つのオレンジを投げる練習から始めた。それができたら左手だけで同じことをする。それぞれが続くようになってきたら、今度は両手で。3つに比べて当然難易度は上がったが、少女に習って段階を踏んでいけば必ずできるという確信があった。確信とは希望の最上位の呼び名である。少年は目覚ましい速度で成長して、その度に少女は表情と身体と投げるボールで祝福した。ボールとオレンジが2人の言語であった。

 その日も両手に2つずつオレンジを持って路地に駆け込むと、屋敷の植え込みの前に数人の人夫たちがたむろしていた。大量に積まれたレンガの上や、泥で汚れた大きな缶の上に腰掛けて談笑している。少年が昨日路地に書いた記録も消えていた。 そのまま立ちすくんでいると、少年に気づいた一人から、仕事の邪魔だと、レンガのつなぎの泥を投げつけられた。俺たちはな、たった3日でこのお屋敷の周りに、塀を作らなきゃならねぇんだ。だから、邪魔すんな。また、泥を投げられた。男たちは屈強で、むき出しの上半身は隆々としている。少年は何もできずに泥を浴びたが、立ち去ることもできなかった。塀だって。そんなものができたら、もう少女に会えなくなるかもしれない。オレンジの皮に指が食い込み、果汁が滴り落ちる。おい、コイツもしかして、この屋敷を狙ってるコソドロか? ハハッ、お前みたいな奴が入り込めないようにな、ここの主人は俺たちに壁を建てさせてるんだ! 下卑た笑い声が上がる。いい気味だ! そのオレンジも盗ってきたやつなんだろ? 俺たちが返しとくから、くれよ、それ。やめろよ、グチャグチャだぜ、アレ。いいじゃねぇか、喉乾いてんだよ。
 手に持ったオレンジを力まかせに投げつけて、その場から駆け去った。ありがとよ〜ドロボーく〜ん。という声とともに背中で泥が弾けた。

 人夫たちもみな大きかったが、完成したレンガの壁はさらに大きかった。屋敷の主が、盗人に抗して築いた壁。問答無用の拒絶の防壁だった。少年が練習をしていた場所から窓を見ると、下半分以上が立ちはだかる壁に隠されていた。少女に会うことはできない。だけど。少年は待った。窓を見上げたまま、我慢強く待った。時折砂を含んだ風が強く吹いても、意地でも顔を背けなかった。
 窓の中、遮る壁を超えて5ボールの軌道が現れた時、少年は深く安堵した。強張っていた身体から力が抜け、瞬きも忘れていたことに気づいた。乾きと砂で目が痛い。初めて何かに感謝したくなるような気持ちを抱いた。かろうじて頂点が見える程度だったが、5ボールは力強く飛んでいた。しかし、少年から少女が見えなくなったように、少女から少年も見えない。もうオレンジ4つの高さでは少女の視界に入らないだろう。5つ投げないと壁を超えられない。今のままでは少女には届かない。

 3つと4つでは投げ方が違ったが、5つは3つと同じく右手から左手に、左手から右手に、のパターンだ。少女が投げていたやり方は、あの涼やかな横顔とともに目に焼き付いている。しかし、目に焼きついていても、身についているわけではない。3つのときより高く投げ上げる必要があるし、まともにキャッチもできないので、オレンジはあっという間にひしゃげてしまう。オレンジが落ちる。きれいな軌道になる前に、オレンジ同士がぶつかって散り散りに飛んでいってしまう。オレンジが落ちる。5個投げるにはオレンジは大きすぎるのだ。投げても投げても全く成長を感じない。オレンジが落ちる。壁に阻まれ少女の姿は見えない。自分の努力だって見てほしいのに、失敗はすべて壁の裏で終わる。オレンジが落ちる。またオレンジが落ちる。泥棒からの防壁。泥棒という存在が壁を建てたのだ。自分のような泥棒が。自責の念に投げる動作が邪魔される。オレンジが落ちる。オレンジが落ちる。オレンジが落ち…… 。
 地面に0と書いてそれっきり、数字を更新する日は来なかった。

 オレンジを投げなくなってしばらく経った。投げないのだから盗む必要もなくなった。もともと自分で食べるために盗んでいたのだが、走るのが億劫なのだ。ゴミ箱を漁っていた方がよっぽど楽だった。
 船着き場の廃棄場を見に行く途中、妙な人だかりができていた。子供たちとその親が囲む中心で一人だけ立っているのは、背の高いピエロだった。ピエロが赤い丸鼻をイジったり、帽子を落としたり、風船を膨らませたりしぼませたりする度に笑い声が上がっていた。一言も喋らずおどけて嘲笑を誘う姿が少年の癇に障った。癇に障ったのに、目が離せない。そのまま動けずにいると、まばらに立ち見している客の隙間をぬって、ピエロの視線が少年を射抜いた気がした。風景の一部としてではなく、少年がそこにいてピエロの方をじっと見ているのを知っているような目の合い方だった。少年は得体の知れない不気味なものを感じたが、ピエロは何事もないかのように観客に対して笑顔あるいは泣き顔を振りまいている。気のせいだったのかもしれない。
 ピエロがトランクの中からボールを取り出したのを見て、少年は目を見開いた。少女がいつも投げていたのと同じ白いボールだった。3つのボールを不器用な動きで投げ始めて、すぐに落とす。ボールが顔にぶつかる。1つだけあらぬ方向に飛んでいってあたふたと焦る。ひとしきり観客の笑いが続いたあと、ピエロの目つきが変わった。一転滑らかな動きで3つのボールを投げ始めた。さっきまでは下手の演技をしていたのかと少年は理解し、ますます苛立ちが募った。ピエロのボールは、少年ともあの少女とも違う、流暢で豊富な動きだった。周囲からは歓声と拍手が上がる。拍手なんて不要だ。あのボールは、オレンジなんかよりもさぞ投げやすいことだろう。あのボールなら、自分だって。
 大きなお辞儀を今日一番の拍手が包んだあと、ピエロはおもむろにトランクケースを観客に向けて開いた。中にはあの白いボールが詰まっていた。紙幣を皆に見せて、ボールを指さして、「交換」をジェスチャーしている。何人かの大人が1つを掴んで、揉んで、上に数回投げて、ニコニコしながら元の場所に戻した。子供たちも果敢に3つ持って投げはじめるがすぐに難しさに気づいて、落としたままに去った。一人また一人と抜けて、人垣が疎になっていった。観客がみんな去ったのを見て、少年はゆっくりとピエロに近づいた。帰り支度をしているピエロは、気配に気づいてこちらを振り返った。睨みつけていると、トランクを開けて中身をこちらに見せた。ボールが詰まっている。1つも減ってないのではないか。少年は震える手のまま、合わせて5つのボールを掴んだ。覚悟を決めるのに数秒を要した。初めて盗むことに抵抗を覚えた。泣き笑いの表情に鋭さが走ったのと、少年が駆け出したのはほとんど同時だった。

 市場の人々は逃走するボロ切れと追走するピエロを好奇の目で見た。オレンジ泥棒じゃないと知ると、店主たちは他人事のように笑った。頑張れ小僧という野次さえ飛んだ。
 少年は、昔そうしていたように、行き止まりに追い詰められないように巧みに曲がり角を選んで、路地を駆け巡った。オレンジ売りの店主のような怒号は追いかけてこない。自分がどれくらい距離を取れているのか、あるいは詰められているのかがまったくわからない。自分の呼吸の合間に追跡者の足音が聞こえる。乾いた地面を蹴る音は小さい。余裕を感じて後ろを振り返ると、ピエロは想定よりずっと近いところまで迫っていた。泣き笑いのはずの顔は、無表情に見えた。袖口から覗き見える人間の皮膚が恐ろしかった。
 走りながらに足がすくんで、もつれて、無様に転んだ。右腕と右足を大きく擦りむいた。ボロ切れはなんの役にも立たない。気力で立ち上がる。鉄の匂いで鼻を拭うと、甲にべったりと血が付いた。ピエロは息も乱すことなく、数歩先で少年を見下ろしている。だらんと落とした腕の先に、ボールが1つ握られていた。少年は4つしかボールを掴んでいなかった。逃げる途中でこぼしたらしい。ピエロは空いている手を軽く差し出した。残りを返せ、ということだろう。
 自分にはこのボールが必要だと伝える術が他になかった。少年はボールを投げるしかなかった。窓越しにオレンジを介して少女と会話したように。ピエロはほんの一瞬、眉毛だけで驚いた顔を見せた。ボールに血が転写され、またたく間に汚れた。ピエロはボロ切れとなった少年が4ボールを投げ続ける様子をじっと見ていた。やはり、泣いているのか笑っているのかわからない表情。鼻血は少し上向きの顎を伝って首に流れ、ボロ切れと同化していく。70キャッチを超えたあたりでこぼした。すぐに拾い直して、また投げた。ピエロは差し出していた手を下ろし、持っていたボールを軽く弄んだ後、少年に向けて放り投げた。少年の投げていた軌道に当たって、ボールは散った。散った5つのボールを拾って、少年は投げた。当然5ボールが続くはずはなく、てんでばらばらにボールは落ちた。ピエロは顔だけで大きく笑った。笑顔のまま、ピエロは少年に歩み寄った。細長い背を大きく折り曲げて、少年の眼前で呟いた。

「どうせ使い物にならん」 

 それは異国の言葉で、少年にはなんと言っているかわからなかった。多分呪詛の言葉だろうと思って覚悟したが、ピエロは振り返って、もと来た道を悠然と歩き去った。


 100回投げ続けられたら、少女のところに行こう。

 少年の決意の上を、月と太陽が100回も200回も通り過ぎていった。

 少年は知らないうち1つ歳を重ねていた。


 壁の前に立つ。やはり情け容赦ない壁だ。窓の中ではあの頃と同じように、5ボールの頂点がリズミカルに現れては消えていく。
 果たして、自分はここに来ることが許されているのか。5ボールの練習をしながらずっと考えていたことだった。盗人という存在が、少女と少年の間に強固な壁を築いたのだ。なのにこの手にあるものはなんだ。あの日ピエロから奪ったボールだ。正真正銘、窃盗の成果だ。だがこれは、少年と少女が交わせる唯一の言語でもあった。5ボールの頂点なら、壁を超え少女に届く。自分はここにいる。自分の努力を認めてもらえる。伝えるという行為は、こんなにも後ろめたいことなのか。伝えるのは悪しき行為なのか。非難の対象なのか。それに抗ってまで伝えたいのはなぜだ。食べるための窃盗は、いつから伝えるための窃盗になったのか。生きるために必要だった行為が、生きるために不必要な行為になったのはなぜだ。窃盗が生み出した障壁は、窃盗でしか超えられないのか。
 問いかけても、壁はただ黙している。無慈悲だった。すべての問いは壁にぶつかり、オレンジのように無残に潰れた。それが壁の答えだった。
 上を見上げた。5ボールの高さを見据える。投げ始めると、不思議と心は落ち着いた。投げたボールは自分の手元に返ってくる。ひたすらそれの繰り返しだった。自問自答の内面とボールを投げては返す行為が同調していた。答えは出てこないが、その軌道は安定していた。

 窓の中、少女の影がよぎったような気がして、視線がぶれた。連鎖的に手元が狂って、軌道が逸れた。立て直そうとして余計に乱れた。あっ、と思った時には、1つのボールが壁の向こう側へと消えていった。壁越しにガサッという音が聞こえた。その場に崩れ落ちることもできず、少年はボールが落ちたであろう場所をにらみ続ける。もう一生、この角度のまま首を戻せないのではないかと思った。穴が開くほど見続けても、強固な壁に穴は開かない。盗みまでして手に入れた言葉をもう失ってしまった。窃盗の成果なんてあっけない。やはり自分がここに戻ってきたのは間違っていたのだ。100キャッチにも満たない5ボールを、少女は見てくれただろうか。一瞬でも少女がそれを見て、認めてくれたら、それで十分だと思った。それですら贅沢かもしれない。

 窓も見上げずに立ち去ろうとした少年は、後頭部に理不尽な衝撃を受けて、思わずその場でしゃがみ込んだ。何が起きたのかと辺りを見回すと、ボールが1つ転がっていた。白いボールだった。屋敷の人が投げ返してくれたのかと思ったのだが、違う。ボールは異常に綺麗だった。少年の血が染み砂にまみれたボールではない。では、これは?
 拾い上げてみると、温もりがある。さっきまで人の手の中にあったボールだとわかった。真っ白なボールだった。真っ白な無垢だった。少女本人が外の世界に飛び出したかのような。そこには、文字が書いてあった。その筆跡は喜びに満ちて、自分のことのように5ボールの成功を讃えていた。少年は文字を読めなかったが、5という数字はわかった。嬉しさが込み上げてきて、開かれた窓を見上げた。早く少女が投げるボールを見たくてたまらなかった。下は壁に遮られ、上は天井が見えるだけで動きはない。文字ではわからなかったが、投げるボールでだったら、少女の喜びをもっと受け取れると思った。二人の言語はボールなのだ。いつまでもいつまでも、窓を見上げていた。窓から見えるはずの5個目のボールが、今自分の手の中にあることに、まだ少年は気づいていない。ボールに残っていた温もりは、誰にも気づかれないような速度で風に溶けていった。

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