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脱構築と世界観 経験の過大評価 読書の不必要性

 経験をした方がいいというのはその通りだと思う。何故なら選択肢が広がるから。Aこそが一番、てAしか知らない奴に言われても説得力がない。Zまで知ってるやつがAが一番て謳う方がいいに決まっている。広い世界を知る方がいいし百聞は一見に如かず、かもしれない。あと単純に知らないことを知るのは楽しい。

 だからと言って、経験してない奴は黙っとけと言うのは少々乱暴でもある。辛い経験を知らない奴に同情された時に「あなた何も知らないじゃん」というのは傲慢な気がする。「知らなきゃ心配しちゃいけないのかよ」と私は返すと思う。政権批判、スポーツ選手批判、全部私たちは経験していない。「文句言うならやってみろよ」には納得できない。
 経験はそんなに偉いのかね。それに、一口に経験と言っても様々すぎるので、どのタイミングでそんなに偉くなれるのかがわからない。
 「とりあえずいっぱい経験しろ、若いうちの貴重な時間を無駄にするな、海外に言って世界を見ろ」というのは、経験を過大評価しすぎている気がする。よしもとばななの小説に「あなたは一つのことからたくさん学べる人、いろんな世界を実際に見たことが無くても実際に見た人よりもいろんなことが学べる人」みたいな内容の文章(正確じゃなくてごめんなさい)があった。

 そういう語られる経験には打算が付きまとう。どこか人生の糧になるように行動している節がある。悪く言うと、わざとらしい。純粋好奇心から得られるものであるはずの知識だが、そういういつか役に立つという期待が垣間見えるのが気持ち悪い。その期待は、知識自体を取り入れることに寄せられるものだ。知識はそれ以上でも以下でもない。「あんなことこんなことがあった。でも全部役立たずでくそだった」と言ってほしい。

 私はよく本を読む。暇だからである。好きな作家も数人いる。
 「本を読め。視野が広がる。いろんな考え方ができるようになる」とはよく言われる読書のメリットである。私はそうは思わない。読書したからといってそんなに偉くなれないし、偏屈が増した気さえする。何故なら自分が読みたい本しか読まないから。
 よくユーチューブの良くないところに、見たい動画しか見ないからそれ以外の情報が入らないことが挙げられる。テレビ番組は別に見たくないところも情報として入ってくるからCMもふくめて知識教養的にはテレビの方が豊富だ。好きなことで生きていくとはよく言ったもので、サブスク的娯楽の悪い側面でもある。見たくなければ飛ばせばいい、ノンストレス。
 基本的に読書も同じで読みたい本しか読まない。文章と映像の差はあるけれど、本質は一緒だと思う。読みたい本を読む。だから必要なければそもそも本は読まなくたっていいし、期待もするべきではない。だんだん個人になじむ情報しか取り入れなくなるし。

 私は本を体験として捉えている。この知識、感情をどこかに役立てようとする気はない。内容は忘れてもいいと思う。けど脳みそを器みたいなものに仮定すると、知識が入る前の器と比較して入った後に忘却した器だと微妙に違う。太宰治が「勉強する意味」で語ったように、忘却後に器の底に残った砂金のようなものが私の中の読書する意味だと考えている。それが深みだと思う。
 まとめると「読書自体に意味はないけど何かをつかむことはある」ということだ。

 ところで、読書は経験の一つとしてカウントしていいんでしょうか。
 経験の定義はあいまいである。

 いろんなことがあったけど別に大したことなかったと言えるのはそれを経験した人の特権だ。経験・知識自体を誇るのではなく、それを無駄だということに人間味のロマンを感じる。それを脱構築と私は呼ぶ。自分の人生で積み上げたものに対して「別にいらなかったな」と思うこと、自分は運がよかったと思えること、器の中の大事なものを全部捨ててリスタートを繰り返すことが世界観だと思う。私たちは世界観を作るために勉強していると言ってもいい。
 知識を超えた世界観。ものの見方。それを作るためには器の脱構築が必要だ。いろんなことを知って、いろんな本を読んで、それを全部捨ててゴミみたいな世界だなって思いながら少しだけ人類に貢献する。意味をを求めるのではなく、それ自体を目的とする。人生の糧にするのではなく、今この瞬間こそが人生である。味わい深い人生に執着はいらない。ロマンは世界には求めない。

ということを考えたけど、言いたいこと多いしもう少しまとまりそうだし理論の飛躍もある。またいくつかのパートに分けて丁寧に書く。今はメモとして読み返しながら組み立てよう。

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