僕の帯広滞在日記③

沼田から電話があったのは20時を少し過ぎてからだった。電話を受けたのは銭湯に行って戻ってきて、目黒川にかかる東海橋の上だった。雨はやんでいた。街灯が妙に明るくて、まわりには人がいなかった。

「おまえさ」

「あのさ、沼田、『夜分遅く済みませんが』とか『こんばんわ、沼田ですが』みたいなのはないのかよ」

前振りなしのいきなりの『おまえさ』に僕は少し呆れて言った。沼田は僕が咎めても全く気にしなかった。

「帯広行かねえか?」

「帯広?北海道の?」

僕は突然思ってもいなかった地名が出てきたので少し驚いた。

「福島の仕事は?」

「見つけるのめんどくさいから福島はまた今度な」

「おいちょっと待てよ、クライアントの要望を無視するのかよ」

「何がクライアントだ。馬鹿かよ。お前はクライアントじゃなくて、単なる労働者だろ。機械の歯車が偉そうに要望などなんだとほざける義理か」

僕は黙った。目黒川は薄暗くてひどく澱んで見えた。沼田は続ける。

「福島の除染関係はあんまりいいうわさを聞かねえし、うちの支社とかもないからなんかあった時に助けに行ってやれねえんだよ」

「帯広ならばなんかあったら助けてくれるってことか」

「骨ぐらいは拾ってやるさ」

電話の向こうで沼田はズズスっと何かをすすった。カップラーメンに違いない。沼田は続ける。

「エグゼで農業の関係の募集がかかってるんだよ」

「えぐぜ?」

「エグゼっていうのは俺がいるネクストヒューマンっていう会社の北海道支社のこと。NHエグゼ。ネクストヒューマンエグゼ。名古屋だったらネクストヒューマンプラウド。東京本社にはそういうは名前ない。胡散臭え会社のくせに名前だけは立派だろ?」

ふーん。なんかマンションの名前みたいだねと僕は言った。

「寮で暮らして、そこから農家なり農協なりに派遣される、そういう感じだ。寮費は45000円。食事代は10000円。それがお前が稼いだ給料から天引きされる」

「なるほど」

「仕事はこっちで見つける。あまり面白い仕事はない。大根掘ったり、ニンジン掘ったりする。パナソニックの工場とか和菓子の工場もあるから冬場も食いっぱぐれることはねえ。多分。ちなみに北海道の賃金は全国で下から数えて2番目。最下位は沖縄な」

「うーん」

「貧困者を働かせて寮費も毟る。金で縛る百パーセントの悪徳企業だ」

「自分の会社だろ。愛社精神とかはないのかよ」

僕はいろいろと考えながら言った。住処も用意してくれるし、仕事もある。そんなに悪い話でもないように思われる。

「あるわきゃねーだろ。愛社精神なんて。ろくにボーナスもよこさんクソ会社だぜ。で、どうする。やっぱやめとくか?もっと近場のもあるぜ。群馬にも支社がある。トリニティだ」

沼田はまたズズっとやった。ネクストヒューマントリニティ。群馬には『トリニティ』というようなイメージはない。そして僕は即決して言った。

「じゃう、行こう。帯広だ」

適当に物事を決断し過ぎだという意見もある。けれど何となくだけれどこれは行っておいた方が良いのではないか、僕はそんな気がしたのだ。

――何かに迷ったときは一番遠くに飛ぶといいよ。

昔、伯母がそんなことを言っていたのをふと思い出したのだ。福島と帯広であれば帯広の方が遠い。前橋に比べても同じだ。一番遠いところに飛んでみる。仕事はどこでも同じだ。だとすればあとで振り返った時『一番遠くまで飛んだ』という昔語りができるほうが良いに決まっている。

「決めた。帯広に行こうと思う。そのように手配してほしい」

僕は言い、沼田は何かを考えるように言葉を切り、それから続けた。

「ああ、まあ、そうか。いいけどさ」

「なんだよ、不服なのかよ」

「別に。おまえは昔から、騙されても騙されたことに最後まで気がつかないような奴だった、って話さ。得な性格だぜ」

沼田はどこかやけくそみたいに言った。

「行くっていうならば話は早い。毎週、こちらから帯広に人を送り込んでいる。だいたい週に二回だ。おまえは羽田に来てくれればいい。俺か誰かスタッフが待っているから、そこで新千歳行の飛行機のチケットとバスのチケットを渡す。本当はこっちでも人材登録をしなければいけないんだが、俺の方で何とかしておくから、こっちに面接に来てくれる必要はない。時間もないしな。どっちにしたって本登録は帯広のエグザでやることになるからな。ああ、いろいろと話したけどあとでまとめてメールで送るからそれを見てくれや」

「分かった」

「一番早いので来週の月曜日だ。どうする?そいつで行くか?」

「ちょっと待って」

いろいろと算段もある。月曜日は8月29日。築地の店が閉じるのは8月31日。水曜日だ。出発をそのあとにしてもぜんぜん構わないはずだ。

「ただ、台風も来ているからどうなるか分からん。飛行機が飛ばなくなるかもしれんから。その場合は金曜か。9月になってからだな。もっと後になるかもしれん」

2016年は本当に台風が多くて、飛行機の欠航が多かった。特に北海道は台風直撃が重なっていたし、春先から雨ばかりだったと聞く。

「店の人にも少し聞いてみるよ。明日までには連絡する」

判った、と沼田の声があった。話はそれで終わりだった。電話の途中から沼田はカップ麺を食べるのをやめてしまっていたみたいだった。スープも何もかもがきっと冷めてしまっているのに違いない。

「ま、気に食わなくなったら連絡くれや。金とかに困っているってわけでもねーんだろ」

「うん。店の人からいくらかもらっているし、素寒貧ってわけではないから」

僕は答えた。

「それならばいい。エグゼに送られる奴は本当に文字通りの文無しみたいなやつが多いからよ。トラブルも絶えないのさ」

どういうトラブルなのかは沼田は言わなかった。

「何回も繰り返すけれど本当にブラックだからな、うちの会社は。貧困者を食い物にする悪党集団」

「でもちゃんとスタッフに給料は出すんだろ?」

給金が出ないのであれば問題だが遅配にならないのであればそれほどの悪とも思われないというのが僕の実感だ。甘いのかもしれないけれど。

「死なない程度にな。で、そこから寮費も抜く。現代の奴隷制度だ」

「出ていこうと思えば出ていけるんだろう」

「ま、そうだけどさ。そうはできねえから奴隷制度なんだよ」

「ふーん」

沼田はいろいろと言っているが僕は人間は全員金に縛られた奴隷だと思っている。貰える額が多ければ奴隷ではないが貰える額が少なければ奴隷、というわけではないと思う。就職先を決めるのにみんな四苦八苦しているけれどそれは結局、金の首輪か、銀の首輪か、銅の首輪かを選ぶのに躍起になっているだけなんだ。首輪をつけられるということではみな同じ。牛舎の牛とあまり変わらない。もちろんそのことを責めるつもりもない。人間は結局死ぬまで数字から逃げることなどできない。そういう生き物だ。

「話は決まりだ。メール、あとで送る。何回も繰り返すがブラック企業だ。泣くなよ」

「泣かないよ」

子供じゃあるまいし。僕はそこで電話を切った。


翌日。僕は山ト兼一の親父さんと若社長にことの顛末を話した。友人を頼って帯広に行くと決めたこと。だから築地で新しい職場を探してもらう必要がなくなったこと。できることであれば週明け月曜には暇を貰いたいこと。そういうことを伝えた。

――構わんよ。

親父さんは僕の我がままをそういって許してくれた。僕は一日も欠勤をしたことがなかったし、だからこれは最後の最後の身勝手だった。店では冷蔵庫の撤去であるとかいろいろと作業が残っていたのだけれど、僕がいなくても業者が来てくれるということなので店じまいの手伝いはしなくてもいいよ、とそんなことを親父さんは言ってくれた。

おかみさんは、

――また帯広なんて随分と遠いところだね。

と本当に驚いていた。

――何か、たとえば北海道に親戚がいるとか、そういうことなのかい?

途中から割り込んできた海老屋のご老体がそんなことを訊ねてきたので僕は、

『いや、全然そういうことはないです。帯広なんて友人に言われるまでそんな土地があることも忘れていました』

と答えた。実際、本当に帯広などという土地名は地理の授業で見た『帯広十勝平野は畑作地帯』というような一文で見ただけだ。それ以上のことは何も知らない。

――帯広なんて、大丈夫なのか?ちゃんと生活ができるのか?熊とか出てくる、ススキばかりの荒れ地ばかりなんじゃないのか?

東京から一度も出たことがない若社長はまるで自分が帯広に行くかのように本気で心配をしていた。僕も北海道というと昔、理髪店に置いてあった釣りキチ三平の古い漫画に出てくる釧路湿原のイメージしかなく、そこで、

『なんかイトウでしたっけ?そういう大きな魚が釣れるみたいですよ』

と言った。実際のところ僕も若社長と一緒で帯広は――帯広市民の皆にはとても失礼な話なのだけれど――西部劇でガンマンが撃ち合うときに転がってくる変な草の塊みたいなものが転がっている、そういう土地だと勝手に思い込んでいたのだ。ちなみに今は分かっているが帯広から釧路までは120キロ。東京から沼津までの距離とだいたい同じだ。

――関ちゃんは思い切りがいい子だからねえ。

おかみさんはそんなことも言っていた。僕はそういうわけでもないと思ったけれど、おかみさんがそう言うならばそうなんだろうと思って黙って笑っていた。

『と、いうことで、しばらく北海道に行ってきます』

それが山ト兼一の店の人や築地の人たちへの最後のお別れの言葉になった。


店の人とお別れをしたあとは住んでいるアパートの大家さんへの報告を済ませに行った。大家さんも、あまりにも僕が早く動いたので、むしろ泡を食っていたようだった。

――こんなに早く退去するのかい?

昨日の今日なので『え!?』というような顔をしてたいた。いつもはいない個人タクシーの運転手をしている旦那さんも何ごとかと玄関先にまで出てきた。僕は二人に経緯を話して、そこでここでも

――え、なんで帯広なの?

と驚かれることになった。友達が仕事を世話してくれたからということも話したのだけれど、

――なんでまた。

と二人とも最後まで首をかしげていた。そんなに帯広は良くない選択なのだろうかと僕は思い、そこで行ったことなど一度もなかったが、なんとなく帯広という土地が気の毒になってきて、そこで言ったのだ

『結構いいところですよ。なんとなくそんな気がします。行ったことないですけれど』

大家さんのところに挨拶に行って不動産屋と契約のことで話をしに行き、それから僕は大井町の駅前にあるイトーヨーカードーでキャリーバッグを一つ買った。あとは大きめのバッグがある。家財みたいなものはほとんどなかったから、それぐらいで十分だった。要らないものは全部捨ててしまう。

南品川はあまり好きになれない街だったけれど、別れるとなると少し寂しくなった。


月曜の朝。出発当日は晴れたり曇ったりと微妙な天気だった。雲の動きがとても速かった。

青物横丁から羽田へ。途中コンビニでのど飴を買った。キャリーバックには下着やらノートパソコンが入っている。あとはスマホ。持っていくものはそれだけだ。

――羽田の第一ターミナルスカイマークの発着場に11時に待機よろしく願います。私が待機しています。そこでチケットをお渡しいたします。

沼田がくれたメールにはそのようにあった。沼田は僕としゃべる時とメールの印象が違うのだ。ほかのスタッフにも送るメールだったからではない。いつも沼田はそうなのだ。というか、それが当たり前の社会人というものなのだろう。

台風が接近していることでもしかしたら北海道行の飛行機が欠航になるかもしれないという話も聞いていたが、そのような情報は青物横丁を出た時には入っていなかった。

――細かい話は現場で沼田に聞けばいいか。

期間はとりあえず3か月。そのあとのことは向こうでまた考える。どういう人がいるかもわからないし、どういう仕事かもわからない。何もわからないままの片道切符。だけれど僕はあまり不安のようなものを感じていなかった。旅立ちに胸躍るというような感じでもないが、悲壮感もない。

――北海道だ。トウモロコシがうまいのではなかったか。ジャガイモだ。ジンギスカンとかもあるんだろう。あとは熊だ。熊と戦うことはできるだろうか。素手では無理か。

明るくもなく、かといって暗くもなく淡々と。『長期出張に行くような気分』なのだ。だからだろう。僕はそこで一つ忘れものに気がついたのだ。ちょうど列車が天空橋の駅を出たところのことだ。

「親父に連絡入れるの忘れた」

僕は家族に自分がどこに行くのかを告げるのを忘れていたのだ。両親とは仲が悪いわけではないが、あまりやりとりがあるというわけでもない。うちの家族では占いをやっている伯母の存在が大きくて、だから親父や母親のイメージが少し小さくなっているのだ。

――どこに行っても友達しかいない。これインディアンのことわざ。覚えておくんだよ。

というように、ふと思い出すのは伯母の言葉で、親父からは強い力のあるキーワードの様なものはもらったことが覚えがないのだ。

「まあ、いいか。向こうついてからでも」

空港について、出発までは時間がある。そこで連絡を入れても良いだろう。

羽田についたのは10時30分。ターミナル二階へは5分もかからなかった。台風の影響なのか人影はまばらだった。沼田の姿はなかった。

「まだ来ていないのか」

到着が早すぎたのだろう。僕はそこで父親に電話をすることにして、スマホを取り上げた。

「あれ」

僕はそこで変なものを見つけた。女の人、というか女の子だ。若い女性。その子は手に画用紙みたいなものを持っていた。

――ヒューマンネクストスタッフ様

画用紙のきれっばしには殴り書きみたいにしてそのような文字がみとめられた。年のころは二十歳ぐらいだろう。小柄な女の人だ。155センチぐらいだと思う。ジーンズに上は白いTシャツ。デニムの上着を羽織っている。大きなキャリーバッグが一つ。その子は画用紙を抱えてぼんやりとしていた。

「あの」

僕は訊ねた。

「あの、あれですよね、ヒューマンネクストの人ですよね」

そうですと女の子は表情を取り戻して明るく笑った。銀縁の丸い眼鏡をかけた愛らしい子だった。少し日に焼けている。八重歯の目立つお嬢さん。誰に似ているというと少し困る。ちびまる子ちゃんのたまちゃんを大人にしたような感じの子だ。頭のよさそうな子だった。

「はい。そうです」

「でも、あれ、あれですよね、社員の人ではないですよね」

「社員ではないです。スタッフです。派遣で帯広に行く。高梨と言います」

女の子は笑って言った。

「そうなんだ。えーと、あの、あれ、沼田浩二は、ヒューマンの社員はまだ来ていないの?」

「沼田って人のことは知らないです。ただ、松木さんっていう社員さんがさっきまでいて。でも、用があるからって帰ってしまって」

「帰った?」

なんだそりゃ。

「仕事でトラブルが起こったからなんとか」

「え、でも、飛行機のチケットとか」

「それ、預かってます。関さん、ですよね」

女の子はキャリーバッグの上に乗っている紙の封筒を取り上げた。ヒューマンネクストという印刷のある青っぽい封筒。たまちゃんは何を封筒すら取り出そうとしている。

「これを渡してくれって」

「へえ」

僕はどういう状況か分からなかったので中途半端な生返事をした。というか、そんなに勝手に帰っていいものなのか、社員というものは。何か説明なりを僕にしなくていいのか。

「一枚あげます」

たまちゃんは言った。確かに飛行機のチケットだ。

「今日出発する人は私と関さんの二人だけだそうです。ああ、千歳からのバスのほうは私のスマホのメールを見せれば乗れるそうです」

たまちゃんはそう説明をしてくれた。そこで僕は高梨さんに尋ねた。少し、沼田の言っていた話と状況が違いすぎるような気がしたからだ。

「あのさ、質問なんだけれど、高梨さんって北海道に何しに行くの?」

「何って?」

僕の質問に小さなお嬢さんは逆に不思議な顔をした。

「仕事に行くんです。北海道に。農業の。寮に入って。3か月ぐらいですけれど。関さんは違うのですか?」

「いや、ええとそうなんだけれどさ」

限りなくブラックで、搾取する悪徳企業。なんで、そこに、こういうお嬢さんがいるのか。なんかもっとひどい連中、どこに持って行っても置きどころがない狂犬凶獣みたいな連中が送り込まれる、そういう職場ではなかったのか。話が何か違ってないか。

「仕事。そうだよね。仕事だ」

僕は釈然としない、というか半分惑乱していた。だけどそれもすぐ収まった。そして少しずつこんなことを思い始めていた。

――ボロクソに言われていたけれど、この仕事は結構、いいものなんじゃないか。

3食付いてそばにはいつもかわいい女の人がいる。

そういうのを普通アタリの人生と言うんじゃないのか?


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