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「消えたスクラム - デモの基本形とは何か?」

「消えたスクラム - デモの基本形とは何か?」
                 京成サブ
 デモのときに、スクラムを組まなくなってもう何十年経つだろうか。今でも、中核派や革マル派のデモでは時々、先頭の全学連がスクラムを組んで機動隊ともみあったりもしているようだが、70年代頃に比べると、わびしい感じは否めない。
 記憶では争議団連絡会議が主体となって1976年から続けられてきた「9.14反弾圧闘争」では、終盤近く(大体、日比谷公園解散なので官庁街に入ると)に密集スクラムで機動隊にぶつかりながら解散地点に入るという古典スタイルを今世紀初め頃まで続けてきたが、もう20年くらい前から、活動家の高齢化もあって普通の歩きデモになった。自分が参加したのは96年からで、もう参加者の大半は40~50代だったが、腰を落としたしっかりしたスクラムで、機動隊を押しまくっていた。

 その昔、ニュース映像や画像で見る限り、60年~70年頃は、社共・総評などのデモでもスクラムは基本形で、主婦連のようなデモでも、スクラムを組んで駆け足で行進なんて情景が普通だった。60年6.15の全学連国会南通用門突入も、数千人の密集スクラムによる正面突破で、機動隊も警棒を乱打しながら突撃で、樺美智子さんが亡くなり多数の負傷者を出した。その後の、原潜寄港阻止横須賀現地闘争(64年、66年)、日韓条約反対闘争(65年 有名なサンドイッチ規制の写真)、砂川基地拡張阻止現地闘争(67年、映画『圧殺の森』でもラストに)、早大学費値上げ阻止闘争(65~66年 映画『若者たち』でも少し出てくる)など、ゲバ棒登場(67年10・8)までは、学生・労働者のデモはスクラムをがっちり組んで機動隊の規制に立ち向かうというスタイルだったのである。
 10・8以降でも、デモがすべてゲバ棒・投石・投ビンだったわけではない。たとえば佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争では、激突2日目の佐世保橋の攻防では、三派全学連がヘルメットに密集スクラムで阻止線に正面から突っ込んでいる。
 ちなみに通常のデモではスクラム正面突破は逮捕・負傷などのリスクが高いので、ジグザグ行進しながら横からぶつかったり、解散地点で盾を並べる機動隊に横からJの字形にぶつかって、そのまま押し出されていくという、お約束ごともあったのである、この攻防をうまくやるには、機動隊にもデモ隊にも特に指揮者、最前列にそれなりに熟練が必要でもあった。

1971年4月29日(左)、1975年7月17日(左)

 自分のスクラム体験を振り返ってみよう。
 最初は1969年6月15日、日比谷公園で行われた全共闘(全国全共闘8派共闘はこの年の9月なので、まだゆるい全共闘連合的なものであった)・反戦青年委員会・べ平連の統一行動で、野音、野音周辺、公会堂前、噴水前などに分散して実数で3万人くらいが集まったはずだ。この時、高校生の独自集会、独自隊列がつくられ、高校入って間もない自分は、同じ高校の先輩たちと反戦高協の隊列についた(反戦高協といっても全部が中核でもなく、ノンセクトも混成だったりアバウトだったのだ)。この日は国会前を除いては機動隊の並進規制はほとんどなく、銀座~東京駅周辺でも道一杯にジグザグデモやりたい放題だった。「これがデモなんだ!」と、生まれて初めて組んだスクラムに感激したものの、予想していた機動隊との攻防がなくてちょっと物足りなかったくらいだ。
 
 その後、高校~大学と、さまざま参加したデモでは、押しくらまんじゅう、どつかれ、蹴られ、盾で叩かれ、盾を足に落とされ、指揮棒で撲られ、引っ張られ、腕をつかまれ、などなど、特に隊列の右端でデモった時は、あざが絶えなかった。デモが始まってジグザグを展開すると、機動隊の指揮官車の上から「〇〇警察署長から警告する。ジグザグ行進は東京都公安条例の違反である」と甲高い声で警告され、それでも従わないと、「ただいまの時間〇時〇分、指揮者を検挙しろ!」と飛びかかられ、時には指揮者だけでなく、先頭の何人かが引きずりだされたりもした。さらに、竹竿部隊が突っ込んだりすると、「全員検挙!」と突っ込まれたりして、スクラム部隊もかなりやられたりと、普通のデモといっても結構怖い思いもしばしばだったのだ。
 
 そんな膨大な体験のなかで、これぞスクラムデモの醍醐味と感じたデモもいくつかあった。印象に残っているのは1970年6月13日、連日のように実施されていた70年安保粉砕6月行動のなかで、この日は後楽園の近くの礫川公園(最近は使われない)で全都のノンセクトだけの全共闘集会が行われ2千人くらいが参加していた。デモは日大全共闘(500人以上はいたと思う)を先頭に混成部隊で横20列くらいの密集スクラム。こちとら高校生だったが隊列は誰でも入れたので、日大の部隊の真ん中くらいでデモした。水道橋を過ぎて機動隊の激しい並進規制で20列が10列くらいに押し込められたが、それでも凄いパワーで押しまくるので、もう身体が宙に浮いたような感じだった。さすがは日大全共闘、既に闘争は後退期だったとはいえ、2年間の激闘で鍛えた気迫とパワーはハンパじゃなかったのだ。
 
 もう一つは、同じく70年の11月15日、日比谷野音で行われた全国全共闘・全国反戦(いわゆる8派共闘)の沖縄国政参加選挙粉砕闘争で、友達と二人で参加していたら、フロント(緑ヘル)に入った高校時代の先輩に声をかけられ、「黒ヘルもあるから一緒の隊列入らない?」と誘われた。この頃は、こういう入り方は普通で、党派のヘルを借りてデモやって、その場でサヨナラなんてことも珍しくはなかった。フロントはこの日、全国動員で500人くらいのスクラム隊列を3梯団に分けてデモ、日比谷を出て規制線が近づいてくると5列の梯団3つが合流して横15列に広がる、そのまま密集しながら横から盾の列にぶつかって押しまくるのだが、さすがに足並みが揃って腰も入り、大船にのった気持ちで最後まで貫徹することができた。
 
 その一方、悲惨なスクラムも数多い。特に71年6月17日の沖縄返還協定調印阻止闘争の渋谷・宮下公園からのデモだ。この2日前、明治公園で中核派と解放派が激突して、69年以来続いた8派共闘が崩壊。この日は解放派など反中核連合が宮下公園で集会をやって、各派の旗竿部隊、その後ろに各派・無党派混成で横20列くらいの密集デモ。それも渋谷駅方面で阻止線を張る機動隊に正面突撃の構えだったので、「こりゃ、やばそうだな」と、ノンセクト高校生グループの自分たちは隊列に入らずに歩道を並走してたら、先頭の旗竿部隊の前で火炎瓶が何十本も炸裂。機動隊はガス弾を乱射しながら「全員検挙」で一斉突撃したもんだから、後方のスクラム部隊は総くずれになって、300人くらいの逮捕者を出した。これは明らかに戦術ミスである。

20列デモ(上)、 強固なデモ隊列の組み方~「宣伝戦線」より(下)

 その後、74~78年頃はスクラムデモといえば、三里塚(岩山鉄塔決戦から開港阻止決戦)、狭山差別裁判糾弾闘争(高裁判決から最高裁決戦)に集中することになるが、78年初め頃か、第4インターが出した『宣伝戦線』というパンフがノンセクト黒ヘルの間でも評判を呼んだ。そこには、バイクヘルにヤッケ、安全靴といったファッションに、幟や横断幕、ビラの作り方、そしてスクラムデモの正しい組み方が、写真やイラスト入りで解説されていたのだ。当時の三里塚全国集会のあとのデモで、インターの隊列を間近に見たが、統一のファッションといい、スクラムといいい他党派に見事に比べても決まっていた。何かのデモで、機動隊の隊長が盾を並べた隊員たちに「次はインターだぞ。しっかり構えろ」とハッパをかけてたのを聞いたことがあった。一方、組み方といえば関西の赤ヘルノンセクト学生が、一番先頭が足を前方に投げ出すような形で身体を後ろに預け、2列目以降はそれを支えながら前進する、というのがカッコよかった(関西流とか言ってた)。当時、関東の黒ヘルにくらべて、関西の赤ヘルは、ノンセクトの割には妙に党派っぽいのだった。

今では見ることもできない…フランスデモ

 80年代に入ると、山谷の越年越冬闘争で行われる、ワッショイデモというのが、ともかくスクラムで機動隊にぶつかりまくる。映画『山谷・やられたらやりかえせ』の中でも、そのシーンがある。ちなみに映画のなかでは1985年の中曽根の靖国参拝反対デモの様子も見ることができる。山谷を先頭にした隊列が、スクラムでジグザグデモを規制されながら展開するところは、60年代以来の基本スタイルが継承されている。こうしたスクラムデモの一方で、フランスデモ(両手を一杯にのばし左右と手をつないで歩く。一人で三人分くらいの幅をとる。機動隊の規制がない時によくやる)というのもよくやった。スクラムより楽で、高齢者でもできるので、最近のデモでもどんどんやればいいのにと思うが、そもそも手をつないだり、他人と触れあるというのが嫌なのだろう。

 触れ合わないといえば、その昔、参加者みんなでインターナショナルやワルシャワ労働歌を合唱するときは、肩を組んだり、互いの背中に手を置いて、左右に揺れながら歌ったものだが、最近は辺野古の「座り込め~ここに~」を歌うときでも、お互いに触れない。触れ合えば良いってものでもないが、なんだか寒々しい感じだ。最近読んだ『だめ連の資本主義よりたのしく生きる』(神長恒一ペペ長谷川の対談の記録。ぺぺは本書の完成を見ることなく、昨年2月に天国に旅立った)でも、コミュニケ―ションがSNSに偏重していることが由々しきことでウツが増えるばかりだと(ぺぺはSNSはほとんどやらない)、「三次元重要説」を唱える。それはデモでも交流でもイベントでも、身体性と直接の触れ合いにこだわることだと。これに倣えば、スクラム・ジグザグデモはウツに効くかもしれない。
 要はデモのメリハリということで、昔も密集スクラム・ジグザグは、最初と、中間点と、解散地に入るときとか、ポイントを定めてやるところに醍醐味があり、特に最後のJターンをどう決めるかなんていうのも、デモの楽しみだったのだ。横10列、20列なんて、死ぬまでにもう一度やってみたい(腰を痛めそうで心配だが…)。

(YouTube連動企画としてデモ動画に特化したモノを3点作成しました。以下にリンク張ってあります)

☆ YouTube 連動企画「でも デモ DEMONSTRATION ダイジェスト版」約8分


☆ YouTube 連動企画「でも デモ DEMONSTRATION ! Part 1 1952年~1976年」約20分


☆ YouTube 連動企画 「でもデモ DEMONSTRATION ! Part 2 三里塚闘争 1967 - 1986」 Ver.2 約59分

☆「宣伝戦線」

宣伝戦の勝利をめざす活動家のための技術書
B5版48ページ1977年10月発行
編集 日本本共産青年同盟宣伝戦線編集委員会
発行 新時代社
資料提供、まっぺんさん。感謝!
PDFファイル・ダウンロードリンク ↓(こちらをクリック)

JPGファイル・ダウンロードリンク ↓(こちらをクリック)

☆「だめ連の資本主義よりたのしく生きる」


☆ 資本主義よりたのしく生きる - 神長恒一 ブログ


☆ 圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録(1967年)監督・小川紳介


☆ ここへ座り込め 合唱


☆ 5.24国会包囲行動・座り込めここへ~今こそ立ち上がろう


☆ 2015.7.14デモ出発地点・辺野古リレーと日音協「座りこめ」「沖縄の道は沖縄が決める」


☆ 2015.6.21 ロバート DE ピーコ Live (ぺぺ長谷川)    「安倍たおせ!全国総決起集会(反戦実)」


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