何が起きていたのか1974~75(後編)
何が起きていたのか1974~75(後編) 京成サブ
1975年の最大のニュースといえば、ベトナム革命戦争勝利(5月)だが、この上半期は、新左翼運動界隈にとっては何とも暗鬱な時期だった。5月19日には、74年から爆弾闘争を展開してきた東アジア反日武装戦線のメンバーが一斉に逮捕された(2人が全国指名手配)。そして6月25日、山谷や釜ヶ崎で活動して手配中でもあった寄せ場活動家(元広島大)の船本洲治が沖縄・嘉手納基地前で焼身した。7月の皇太子訪沖への抗議と、反日武装戦線逮捕への痛恨の思いが「遺書」から読み取れる。(1985年、遺稿集として『黙って野垂れ死ぬな』が刊行された)。さらに3月14日、中核派の本多書記長が革マル派によって「殲滅」されたことで、両派の抗争は一段とエスカレート、中核派の報復戦で革マル派も次々に「殲滅」される(立花隆の『中核VS革マル』が刊行されたのもこの年)。6月には、解放派(革労協)の活動家に初めての死者が出たことで、こちらも報復戦が激化。埴谷雄高ら新左翼を支持する文化人らが、「内ゲバ」の停止を求める声明を出して、月刊『現代の眼』などに掲載されたが、効果はまったくなかった。
マル青同の殺人~都知事選
内ゲバはこの3派だけではなかった。前編で取り上げたマル青同も岡山大で学生を一人殺しているし、ブンド各派は細胞分裂のように離合集散を繰り返し、構改諸派の分解、セクト化したノンセクトの内ゲバもあった。そんななかで、マル青同は都知事選に立候補。得票数こそ数千くらいの泡沫候補だったが、都内あちこちに赤ヘル部隊が登場。記憶に残るのは、投票日の前日、新宿東口広場。ここでは3期目を目指す美濃部都知事と、自民党に支援された石原慎太郎が入れ違いに登場して、石原裕次郎も登壇した(生で見るのは初めて)。少し離れたところでは、愛国党とマル青同が竹竿を構えてにらみあい、なかなかスペクタクルな光景だったのである。
都知事選前夜の新宿といえば、時期は4年後の1979年に飛ぶが、美濃部のあとを受けて社共推薦で立候補した太田薫(落選。自民党推薦の鈴木が当選)が、中山千夏や青島幸男らに囲まれて演説をしていたところ、右翼の日本青年社が大型の宣伝カーごと突っ込んできて、防衛に当たっていた社青同(協会派)の活動家らと、双方旗竿で大乱闘となり、混乱のなか投石が太田薫に当たって、左目あたりから血を流しながら「私は負けない」と絶叫する姿を間近に見たが、これもスペクタクルだった。
皇太子夫妻訪沖阻止闘争、新橋駅での革マル派と中核派との衝突
さて75年のもう一つのハイライトといえば、沖縄を訪問した皇太子夫妻(アキヒトとミチコ)に、火炎瓶が投げられた衝撃的ニュースだ(戦旗西田派と沖縄解放同盟の二人)。この訪沖阻止闘争(沖縄からは「沖縄上陸阻止闘争」)は、70年代以降の反天皇闘争と、沖縄解放闘争を結ぶ大きな節目となる闘いであったが、社共革新勢力は無視、「本土」も沖縄も新左翼だけの闘争であった。むしろ、87年沖縄国体における知花昌一さんの日の丸焼却決起のほうが、社会的インパクトは大きく、右翼の反応も熾烈だった。
東京における訪沖阻止闘争は、74年のフォード共闘からインターなどが抜け、諸党派プラスノンセクト1千人くらいが解散地の六郷土手で機動隊とぶつかったくらい(10数人逮捕。不参加)。
翌日の清水谷公園には行ったが、諸党派合わせて700人くらい(解散地の日比谷公園入口でぶつかる)。解放、戦旗(荒派)、プロ青同、労活評などに加えて、旧情況派の流れで毛沢東色濃厚の「遊撃」派が勢力を伸ばし100人くらいいたのが印象に残った。
一方、各派が羽田現地闘争を展開したその後、大激突が新橋駅で起こった。新橋駅の同じホームに同方向の山手線と京浜東北線が入るのだが、品川方向から来た電車の一方に革マル派が、もう一方に中核派、合わせて千人近い部隊が目の前で遭遇したのだから大変である。双方とも旗竿で電車の窓も滅茶滅茶にして(一般乗客は床に伏せてた?)。乱闘は線路上にもおよび、電車はすべてストップ。死者1人(革マル派)、逮捕者300人余、負傷者(一般人も)数百人の惨事となったのである(当時、あらかじめ仕組まれたという謀略説も流れた)。
天皇訪米阻止闘争、大学べ平連・最後のヘルメット姿
この年はさらに、天皇ヒロヒト初の訪米というので、前年のフォード来日に続き、新左翼最大の闘争テーマとなった。
訪米前日の9月29日は、全労活系呼びかけ集会が明治公園(諸党派と反戦派労組など2千人)もあったが、べ平連関係が呼びかける集会が清水谷公園であると聞いたので何人かで行ってみた。べ平連は、ベトナム戦争終結で解散を宣言したが(解散集会とデモを6月15日、清水谷公園で開催。3千人参加)、諸課題の取り組みにはまだべ平連の旗をもって参加していた。この日は、市民系400人くらいに、明大・法政・立教中心に大学べ平連が黒ヘル・銀ヘルなどで100人余り、そしてあの日学戦が100人余り(ここだけ異様な雰囲気)だった。こちらはノンヘルの学生隊列でスクラムデモ。ちなみに大学べ平連のヘル姿を見たのはこれが最後だったと思う。
30日は、蒲田駅近くの公園で、解放派(全国動員で700~800人)、フロント(72年に解体したが復活、緑ヘル150人)、プラス黒ヘル若干の1日共闘のデモに参加した。解放派もこの日は密集スクラムデモのみ。中核も全国動員(約2千人)かけたがスクラムデモのみ。ほかにはインター&プロ青同&戦旗(荒派)の3派ブロックでデモ(これが後の管制塔占拠闘争の共闘につながる)。一方、戦旗(西田)、遊撃、烽火、赤軍諸派、京大同学会など、ブンド系諸派プラスの一日共闘が組まれ約700人のオール赤ヘル。全体で旗竿突撃隊が編成され50人近くが逮捕された。
三里塚全国集会、日韓定期閣僚会議粉砕闘争~第4インター・外務省に突入闘争
10月の三里塚全国集会は、土砂降りの雨のなかだったが、警察発表でも4300人と、久々の盛り上がりで岩山鉄塔へのデモ。目を引いたのは、上り調子の第4インターが党派隊列だけでも700人、これに戸村選挙でつくられた「三里塚闘争に連帯する会」の大衆隊列も率いて、三里塚での存在感を増した感じだった。
これに特にカリカリしていたのが解放派で、9月に行われた、日韓定期閣僚会議粉砕闘争では、会場でこぜりあいになった。ちなみにこの時のデモで、インター(本隊は700人)は行動隊50人ほどが、デモ中にそのまま外務省の敷地に突入して、全員が逮捕された。このデモには行かなかったので翌日の新聞1面の見出しを見てびっくりした。少なくとも「合法デモ」の最中に、これだけの人数が官公庁の敷地に突入するなんてことは珍しいことだ。
狭山差別裁判糾弾闘争・最高裁決戦へ、叛旗派のネグレクト
狭山差別裁判糾弾闘争は、74年10月31日の寺尾判決で一旦、後退したかと思われたが、次なる目標は最高裁決戦、その突破口にと10.31の1ヶ年日比谷大集会には、解放同盟と支援諸党派、組合なども全国動員で、雨のなか野音の外にあふれだす2万人が結集し、常盤橋公園まで、スクラム、ジグザグデモを展開。各大学の解放研も健在で、76~77年(この年の8月に上告が棄却される)まで、新たな高揚をつくりだしてゆく。
そういう意味では、全体として暗澹たる年にもかかわらず、少数派ノンセクトも消耗せずにやってこられたのは、何はともあれ、狭山と三里塚があってこそなのだ。
革マル派はこの両課題は取り組まなかったのは知られているが、革マルを除く諸党派のなかで唯一、ネグレクトしていたのがあの叛旗派であった。叛旗派は73年頃までは三里塚に現闘もあったはずで、いつのまにか引いてしまっていた。(73年頃は、早稲田解放闘争も多くの逮捕者・負傷者を出しながら奮闘していたが)。部落差別糾弾も位置づかなかったようで、この頃は、定番でもある政治集会での吉本隆明講演では2千人くらい集め、ノンセクト界隈でも吉本ファンは結構いて叛旗派はそれなりの人気?を保っていたのである。(76年になって、叛旗派は「革命はここに、そしてロッキードの彼方に」なんて変なタイトルの政治集会をやって党派を解散)。
統一教会 - 勝共連合~反原理闘争
この年は、統一教会 - 勝共連合の動きも活発で、学生組織の原理研や共産主義研が、拠点として力を入れていた青学大、明学大では攻防が激化した。。明学大では原理研のメンバーが警察を呼び5人が逮捕される。青学では、学長自身が原理(世界平和教授アカデミー。筑波大学の初代学長も)で、文連や新聞会、学園祭実行委まで牛耳られた。各大学の反原理闘争は81年頃まで続いたのだった。78年秋には、青学学園祭のさなか、ノンセクトを中心に各大学から200人近くが結集し、キャンパス内で反原理集会・デモが敢行された(当日、青学の正門前には放水車、装甲車など警察車両が20台くらい待機していた)。
自衛隊観閲式粉砕朝霞現地闘争
あと前編で触れられなかった闘争に自衛隊観閲式粉砕朝霞現地闘争がある。実はこの闘争に初めて参加したのは77年で、浦和市議でべ平連の小沢遼子が宣伝カーと上からアジりまくり、浦和市民連合(べ平連)、銀ヘルの埼玉県反戦(主体と変革派。100人くらいいた)、白ヘルの武蔵大学自治会(社青同協会太田派。のちに「人民の力」派)、黒ヘルの法政大社会学部自治会(プロ軍の流れ)、解放派、インター、蜂起派(東京叛軍行動委員会)といった異色の顔合わせの1日共闘。デモは結構激しく、74年10月の行動では確か20人近く逮捕されてニュースでも流れた。スクラムデモの回で紹介した、戦後のデモダイジェストの映像のなかでも映っている(雨の中、法政の黒ヘルか全員旗竿で行進、衝突の場面も)。
スト権ストの敗北と『いちご白書をもう一度』
さてさて、この呪われた年!にふさわしいフィナーレともいえるもう一つのハイライトが、スト権ストの決行と敗北である。すでに官公労を主体とした総評労働運動は後退期にあり、むしろ民間中小零細の争議が、刑事弾圧と右翼(暴力ガードマン)の襲撃という中で果敢に闘われていたなかで、相変わらず官公労は既得権の上にふんぞりかえっていた。そんななかで、世論の支持もないスト権ストで、国電など1週間も止めたもので、ますます大衆の支持を失い、総評冬の時代に突入し、やがて労戦統一(連合)という体制内労働組合運動に向かってゆくのだった。この年は、三木内閣で、「リベラルな三木だったらスト権を認めるだろう」なんて甘い期待もあったようだ。
この年に流行った歌に『いちご白書をもう一度』というのがある。74~75年の「激動」とはまったく無縁に、闘争からおさらばした元全共闘あたりが、「もう若くないさ」と「髪を切って」さっさと就職したという自己憐憫の歌詞にげんなりしたっけ。 以上。
☆でも デモ DEMONSTRATION ! Part 1 1952年~1976年 京成サブ note「消えたスクラム - デモの基本形とは何か?」連動企画
☆18分56秒~20分14秒、自衛隊観閲式粉砕朝霞現地闘争。黒旗を持って行進する黒ヘル軍団が法政社会学部自治会。衝突の場面も。
☆20分16秒~21分09秒、皇太子夫妻訪沖阻止闘争での中核派部隊(この後に新橋での革マル派との大衝突)。
☆映画『狼をさがして』予告編 (東アジア反日武装戦線)
☆ひめゆりの塔事件-1975年
☆TBSラジオ「プレイバックあの選挙~1975年東京都知事選」(赤尾敏、マル青同の解説有り)
☆5.25 追悼,弾劾,そして斗いへ (マル青同問題)
☆「黙って野たれ死ぬな : 船本洲治遺稿集」
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