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本質と見立てとなるものの混乱

 今度の11月11日に東京流通センターにて行われる文学フリマ東京37に参加する。今回は第二展示場2階のFホール「つ-48」にて出展する。出展名はいつも通り「牽引社」で、お隣は日本エスペラント協会(自分が活動もしている)になっている。https://c.bunfree.net/c/tokyo37/h2f/%E3%81%A4/48
 今度の出展のために『会話についての思索』を増刷して用意したり、『解釈学的実践論』の追記を冊子にして用意したりした。前者については、以下のシリーズでNote上でも記事にしている。

 それでは後者の解釈学的実践論についての追記は何をテーマにしているかというと「本質と見立ての混同」である。すなわち、普段は見えていない本質を目指して動く意識と、何らかのものを見立てて活動する意識とが混乱してしまい、強迫的な気持ちを生じさせることについて書いている。
 例というほどのことでもないが、SNSでの活動が時々、同じような状態に陥ることはありうる。自分なりに面白いと思って発信したことについて、それが物事の本質を言い当てているからだったのか、それとも何か他のものを見立てて行う活動だったのか、それが分からなくなるのである。
 自分自身の体験、すなわち登山をしたとか、料理をしたとかいったことは、この混同に陥りにくい。体験はそれ自体が情報源となるので、それに対する態度の取り方次第で本質か見立てかは明瞭に区別される。ただし、他の人が表現した事柄を受け取って、世界の何かを間接的に経験するという場合には、この境界が曖昧になってくる。
 松尾芭蕉の「おくのほそ道」は、よく知られているように江戸時代の紀行文である。一読する限りだと、とても面白く書かれた旅行の文章に思える。だが、同行した曽良の手記などと比べると、旅の内容は編集され、再配置されていることが分かる。実はそこには、松尾芭蕉が自らの考えを投影する見立てが混在しているのである。このことを理解しない間は、おくのほそ道における本質は芭蕉の旅である。しかし理解した後では、見立ての先に表現される何らかの意義が本質として捉えられることになる。
 「おくのほそ道」を面白く読み、江戸時代の様子を羨ましく感じて発信などをするとしよう。すると、その対象は何らかの当時の体験についての事なのだろうか、それとも芭蕉がイメージした意義についてなのだろうか。何が本質となり、何が見立てだったのか、そこが混乱してくるだろう。
 とはいえ、SNSなどで発信する程度であれば、多少の混乱が生じてもすぐに忘れることができる。強迫的な気分にまで到達することは少ないと思われる。

 では、行くところまで行ってしまったらどうだろうか?その場合には、例えばサイコホラーアニメ「パーフェクト・ブルー」のような悲劇に陥るかも知れない。この映画では、アイドル・グループを脱退して俳優を目指す主人公、霧越未麻の周辺で起こる連続殺人事件を中心に、熱狂や所有欲、現実と夢の混乱などが描かれている。ネタバレなどもありうるので深入りしないが、ここで現実と夢の混乱を生じさせている蝶番となっているのは、アイドルの身体性(物質的)とビジュアル(精神的)という二面の要素が、どちらが本質でどちらが見立てなのか、分からなくなってくるという点にあると思う。もちろん両方が大事なのだが、殺人事件に至るような究極的な意識の中では、その関係次第で何もかも変わってきてしまう。身体性が本質であるとした方が健全な風に一見思えるが、そうすると「アイドル」としての身体性とは、視聴者にとっての「手のひら」や「フィギュア」ということになるのであろうか。実は一方で健全に思えることが他方では不健全であったりする。逆に、視聴者にも共有されるビジュアルを本質とすると、主人公自身を超えて共有された精神(ないし幽霊)に支配されることとなる。

 アイドルの話をしたので話が分かりにくくなってしまったかも知れないが、家族のイメージについての話でも、成功のイメージについてでも同じように考えることができる。いずれにしても、混乱を抱えたまま進めていくと何らかの強迫的気分が生じてきて、最後には破滅してしまうのである。

 このような意識の流れ、思考の発展について、本文となる『解釈学的実践論』の解決方法と同じように実践的な方法を考える。それはすなわち、思考を引き返すというやり方である。思考は通常、ヘーゲルが言うような「正反合」の順序によって前に進んでいく。しかし、思考それ自体の働きを反省したり、理解のあり方を反省する思考を取り入れることで、それを遡っていくこともできる。それをここでは解釈学的実践と呼んでいる。
 本質と見立てというと、基本的には本質の方が重要であって、見立てはそのおまけに思える。しかし、理解の仕方としてはそうではない。見立てはむしろ積極的な活動であり、それ自体の重点を持っているものである。本質がどのような関係性の中で理解されるのか、ということと、見立てがどのような関係性の中で活動するのか、ということを別々に捉えていくことによって、これらの混同を解きほぐしていくことができる。
 もちろん、ただ遡るだけでは、何も進展がない。その遡りの中にあって何らかの新しい関係性を作り出すための端緒がある時にこそ、遡る思考に意味があるはずだ。

 大きくは以上のような方向性で、内容はもう少し詳しく書いた冊子を、今度の11月11日に並べる。もし機会があったら是非手に取ってみてほしい。

front image "Plastic" by Ian Jacobs
link, CC BY-NC 2.0 DEED, trimmed for upload


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