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「頭が良い」って何だろう?

最近、ずいぶん春めいてきましたね。
どうも、花粉症で頭がお花畑状態の泥水です。

今回は、高学歴コンプレックスの続き、というか派生的な記事です。

テーマは「”頭が良い”ってなんだろう?」です。

前回の記事で少し触れましたが、私は周囲から「頭が良い」と言われて育ってきました。主に、学歴が理由だと思われます。だいたい成績は優とかAとか、評価でいうところの一番いいやつが並んでいた覚えがあります。

しかし、私自身は、自分が「頭が良い」とは思えませんでした。成績について褒められるたび、嬉しい半面、「そこまで褒めてもらえるようなことじゃない気がする」というモヤモヤがありました。

個人的には、「頭が良い」という言葉に、あまり意味はないと思っています。だって、あまりにも漠然としすぎているから。

「頭が良い」という幻想

「頭が良くなりてえ〜」という発言。
たまに耳にしますが、正直、この発言自体がものすごく頭が悪い感じがします。いや、自分もわりと使うんで、アレなんですけど・・・。
この手の発言って、「優秀だと評価されて就活で有利になりたい」とか「とりあえず認められたい、褒められたい」が本当のところじゃないかな、と。

私は、本当の意味で「頭が良くなりたい」と言う人は、「頭が良くなりたい」という言葉は使わない、と思っています。もっと、具体的な欲求がある
「この本の内容を理解するだけの知識が欲しい」とか、「全ての言語を理解できるようになって翻訳なしで原著を読みたい」とか。

「頭がいい」という言葉は、結構頻繁に使われているわりに、あまりきちんと定義されていない気がします。使う人によって、意味が全然違うことが多い。

「頭が良い」って、なんか褒めてるなっていうのはわかるけど、どう「頭が良い」のか、具体的なところが何もわからない。

じゃあ、どう言えばいいのか、というと、「◯◯することに優れている」が適切な言い方ではないか、と私は思います。そもそも、「頭が良い」という考え方自体、幻想だとも思っています。社会の作り出した幻想。
何もかも最初から理解できる天才がいたら、その人は「頭が良い」と言えるかもしれませんが、基本的に、人間には得意・不得意があって当然です。なので、「頭が良い」とひとくくりに言うことはできない、と思うわけです。

「成績」で褒められるのは高校まで

「頭が良い」は幻想、とは言いましたが、あくまでそれは私の考えであって、社会ではよく使われているのが実情。

例えば小学校だと、テストで100点をとれる子が「頭が良い」と評価される傾向があります。計算が早いのも「頭が良い」。暗記が早いのも、「頭が良い」。要は、成績が良いと、「頭が良い」

しかし、大学に行くと、試験で満点をとっても、「頭が良い」とはあまり言われません。もちろん、それはそれで優れているとは思いますが、試験の成績で褒めてもらえるのは、せいぜい高校、大学受験くらいまで。

大学では、より多角的な視点から、評価がなされます。

例えば、研究で「新しい分野を切り開いていく」うえでは、過去の研究から自分なりのアイデアをひねり出す必要があり、柔軟な発想力が求められます。
他にも、実験結果をいくつも集めて、そこから自分なりの結論を導く、論理的思考も必要になります。ひとつひとつの結論について「本当にこれは正しいのか?」と裏付けしていく地道な作業も大事です。

大学で求められる力は、本当に様々です。求められる技能の全てを得意とする人物は、そうそう存在しません。少なくとも、私はひとりも見たことないです。難解な問題を解けても、人に説明するのが下手だったり、過去の研究を理解するのは素早いけど、そこから新しい発想をだすのに時間がかかったり。

「数学に強い」「論文のまとめ方がうまい」「アイデアが面白い」・・・評価の方法は様々ですが、とにかく、ひとつの物差しで測ることはなくなります。そうなると、誰かに関して褒めるとき、「彼/彼女は頭が良い」ではなく、「彼/彼女は◯◯に関して優れている」といった言い回しになります。

万能型の人間なんていない、というのが、当然のこととして受け止められる。それはとても、ありがたいことだし、大学だけでなく社会全体でも、そうあるべきだと思います。苦手なものは苦手なんだからしょうがないじゃん!

「成績」とかいうシステム、やめません?

小学校から大学受験までは成績というひとつの物差しで測っているのに、大学/社会では、途端にそれが変わる。なんか、非合理的だな、と思います。

私は、試験の点数で成績をつけ、それで生徒を評価することは、あまり良いシステムではない、と思っています。もちろん、何百という生徒を、ひとりひとりじっくりと評価するのは難しいでしょう。ひとつの物差しで測る評価システムは、たしかに便利ではある。それはわかります。

ですが、成績が評価の大半を占めてしまうというのは、やっぱりおかしい

勉強が苦手でも、コミュニケーション能力に長けている人。数学の公式がわからなくても、直感的な空間把握に優れている人。成績というシステムでは測れない、素晴らしい能力をもった人は、大勢います。

高校までそういうふうに、ひとつの物差しで無理やり人を測って、優劣を決めておきながら、大学や社会に出た瞬間、その物差しが変わる。それだったら、もう最初から成績で評価するのやめてくれよ、と思ってしまいます。

「成績が良い」=「頭が良い」という風潮、小学校から高校、大学受験までで培われるその感覚が、学歴コンプレックスなどにつながってしまうんじゃないか、と私は感じます。現に、自分は勉強はできたけどそれ以外がポンコツで社会に馴染めなかったので、コンプレックスになりました(詳しくは前記事をお読み下さい)。

勉強ができるのも良いことだけど、もっと色んな面で評価してもらえるようになればいいなあ、と願っております。皆が生きやすい世の中になってほしい。

私はとりあえず、英語をバリバリできるようになってハリーポッターを原著で読みたいです。頭が良くなりてえ〜!!!!

追記:そうは言いますけれども...

「そうは言うけど、やっぱり自分より”頭が良い”と感じる人、存在するよ」という方。わかります。めちゃめちゃわかります。

私は大学時代、同学年の友人が解ける問題が自分に解けないと、毎回「私って頭悪いな!?」とコンプレックス剥き出しで暴れてました。色んな相手に「あいつ頭良いなあ〜チキショ〜!!」と思ったりしてました。

ですが、冷静になって考えてみましょう。
もしかして、得意分野が違うだけじゃないか?と。

自分よりも知識的に優れた人がたくさんいると、「私、頭が悪いのでは?」という感覚に陥ることはあります。みんな「頭が良い」んだなあ、と。

ですが、よほどの天才でないかぎり、皆、初めは同じスタートラインに立っていたはずなのです。自分より優れた人・・・例えば教授などが自分より「頭が良く」感じられるのは、自分より何年も長く研究をして、思考することに慣れているから。やっている年数分、優れているのは当たり前なんです。

なので、そこで経験を積んで追いついてみせるか、他の得意分野を伸ばしていくか・・・そこは各々方の自由ということで、あまり自分を卑下せず生きていくのが良いのではないかな、と思います。

今度こそ終わります。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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