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特攻隊の不死鳥〜名も無き人の反抗

1944年11月12日、21歳の佐々木友次は特攻隊の一員として人生初めての特攻命令を遂行しました。元々の命令は飛行機を敵艦に突っ込むことでしたが、佐々木は爆弾を投下して帰りました。

十日後再び特攻命令が下された佐々木はまた出撃し、そしてまた帰投しました。援護する僚機が見つからなかったため止むを得ず帰りましたと。

3回目の出撃前に、作戦参謀は厳しい警告を告げ「必ず体当たりをしろ」と命じましたが、佐々木はまた無事帰還し、「爆弾だけで敵を消滅しましたので、体当たり目標がありませんため帰りました。」

実はこの時佐々木戦死の報道すでに3回出され、何度も特攻したにもかかわらず、何度も帰還し、そして再び特攻に出ます。

彼の特攻出撃はなんと全部9回を行いました。一緒に出撃した同僚達は無論全員戦死したが、彼だけいつも生きて帰り、そして毎回もちゃんとした理由があります。

「飛行機故障しました」

「迷子になり、目的地につけず無駄に犠牲することが許されません」

「敵を見つからず、鯨に体当たりしてもしょうがない」

誰でも佐々木がわざとやっているに違いないと分かっている、上官が怒ってもなすすべがありません、だって一緒に飛行機乗っていないから事実を証明できません。

10回目の出撃前に、切れた上官は一緒に出撃する予定の特攻隊員に佐々木を撃破しろと命令し、これ以上特攻隊の恥を晒してはならんと

侍は七生報国としか言っていないのに、こいつはすでに9回戦死発表したよ。

そして10回目の出撃する前に、戦争が終わりました。

戦後、佐々木は北海道の地元に戻り、2016年92歳で亡くなりました。

もし21歳でそのまま犠牲になったらのちの71年間は・・・・・・

佐々木の物語を読むと面白い人だなと思うかもしれませんが、当時の環境で佐々木のような名も無き人物ができる唯一の反抗でした。

精鋭教育で育ったパイロットとして、飛行機を操縦するのは仕事です、たとえアメリカ軍の戦闘機と戦ってもいい、そして運よく退役後また民間のパイロットになれるかもしれません、引き続き国のために技術を貢献することができます。

決して飛行機で戦艦に体当たりするのは仕事ではない、しかも全く意味のない行動であり、たとえ当たったとしても国を救えません。

どうな狂った時代でも必ず輝く光があり、それも人類が本日まで文明を続けてきた理由かもしれません。

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