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英国王の象徴〜ウィンザー城

イギリス現存の最も古い城であり、世界最も古くかつ生活できる城でもあります。ウィンザー城の歴史を見れば、英国王家の歴史もわかります。

ウィンザー城は今から約一千年前の1070年に作られ、当時のイギリスは征服者ウィリアムに征服されていた時代でした。ウィリアムはロンドンの周辺地域に互い支援できるよう計九つの城を作りました、ウィンザー城はその中の最も大きい城です。もちろん、大きいというのはあの時代の基準です、今から見れば石垣の城壁すらなかった当初のウィンザー城は豪華とはほど遠いでしょう。

その後歴代の国王はウィンザー城を増築しつづ、宮殿、教会、円塔少しずつ建てられるようになりました。14世紀になると、ウィンザー城にとって運命の人と出会いました。

それはエドワード三世、のちに英仏百年戦争を起こした人でした。エドワード三世はウィンザー城で生まれ育ち、24年間をかけてウィンザー城を拡大していきました。彼はウィンザー城で自分の騎士団ーガーター騎士団を創建しました。

ガーター騎士団の名前の由来がとても面白い、当時、イングランド人はフランスの港を攻略した後の祝会で、とある貴婦人の靴下止め(ガーター)が外れ落ち非常に恥ずかしい状況にも関わらず、周囲の人は大笑い。これを見たエドワード三世は貴婦人のガーターを拾い上げ、周囲の人に怒りを示し、新しい騎士団は「ガーター」を命名するという。

勲章にもガーターの模様があります。

ガーター騎士団は国王を入れても25名しかいない、この称号をもらえるには大変な功績が必要とされています。そしてこの称号の授与地はウィンザー城です。

エドワード三世以降、ウィンザー城は数度の修繕を行い、より生活しやすくなりましたが、1640年、イギリス革命が起きチャールズ一世が処刑され、クロムウェルが登場してからウィンザー城の苦難も始まりました。

クロムウェルの統治が非常に厳格であり、清教徒ゆえに国民に禁欲を求め、歌や演劇も禁止されました。ウィンザー城は没収され、中の貴重な品もほとんど売却されました。

クロムウェル死後、快楽王チャールズ二世復辟し、クロムウェルと真逆なタイプです。そのため、ウィンザー城も再び飾り付けられ、大金で名画を購入した上、城自体も一般公開されるようになりました。

チャールズ二世死後、後継者達は田舎生活が嫌いため、ウィンザー城も冷遇されるようになりました。

1820年、軍事愛好家であるジョージ四世が即位しました。彼は皇太子の時代、イギリスはナポレオンを破ったことを知ると非常に残念でした。自らナポレオンを勝ちたかったそうです、仕方なくウィンザー城のホールを「ワーテルロー」と名づけ、戦い関連の巨大絵を設置し、ナポレオンが使ったものを集め、まるで戦利品のように人々に展示します。



実際にウィンザー城に行けば今も見られます、ネルソン子爵を殺した銃弾もここで保存されています。


ジョージ四世死後10年、ヴィクトリア女王は従兄弟であるザクセン=コーブク=ゴータ公と結婚したことで、ドイツ苗字である「ザクセン=コーブク=ゴータ」がイギリス王室に入りました。

女王の孫であるジョージ五世になると、第一次世界大戦が勃発し、イギリス王室は敵であるドイツの苗字を持つのはあり得ないとされ、1917年ジョージ五世は住所であるウィンザー城を新しい苗字にすることを発表しました。

本日のイギリス王朝の名前はウィンザー朝ですが、ハノーヴァー朝のジョージ四世が息子いないため、娘であるヴィクトリアに即位させ、ヴィクトリアはドイツ人と結婚し、「ザクセン=コーブク=ゴータ」王朝となりましたが、戦争の理由で名前をウィンザー朝に変更したということで、実は同じ血筋です。

第二次世界大戦の時、ヒトラーはウィンザー城だけ空爆しなかった、彼はイギリスを征服した後自分で住みたかったという、しかし、イギリス人はヒトラーの考え方を知る由もなかったので、王室は毎晩地下で過ごしていました。エリザベス女王の青年時代もこのように過ごしていました。

ウィンザー城は二度の世界大戦、冷戦を乗越え破壊されることなかったが、平和の時代で危うくなくなりそうになりました。

1992年、エリザベス女王にとって最も不幸な年でしょう。息子夫婦が別居し、娘も離婚した上、長年住んでいたウィンザー城は火災に遭い5分の1の部屋が破壊され、損失は3000万ポンドに及び、修復したくても費用がかかるため、ウィンザー城は再び一般公開されるようになりました。


もしイギリス旅行に行く機会があれば是非一度訪ねるといいです。

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