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一九九五年 台灣⑸ - クォーター・センチュリー

最近の、特に今年度に入ってからぼくは仕事がかなり忙しくなって、台湾に行くどころか日々のことすらままならなくなってしまいました。無聊を慰めるために自室で台湾に関する本を何冊か読んでいましたが、いくつか思い出したことがありましたので、忘れる前に書いておこうと思います。

「再会」 から感じるうすら寒い南国

宮脇俊三氏の「台湾鉄路千公里」は、西暦1980年に氏が台湾を訪ねたときの鉄道旅行記で、少し前の台湾の鉄道について調べたい人にとって(日本人のみならず台湾人においても)必須アイテムだったりするのですが、当時の地方都市事情についてもかなり詳しく書かれていて、土地の人とのさりげない会話のなかにいろいろ奥があって考えさせられたことが印象に残っています。

個人的にとても印象的だったのは、再見(ツァイチェン)と言ったときの台湾人の反応で、台湾ふうに「再会」と言い返した青年「あなたは北京に行ったことがあるのですか?」と問いかけたおっさんの存在は、すなわち国民党政権へのアレルギーともいえる感情がうっすらと見えていて、あれこれ考えさせられてしまいます。

でも確かに、わたくしも過去(といっても戒厳令解除以降)に台湾東部に行ったとき再会という言葉を聞いた記憶があります。日本語でどう言うのかを聞かれ、さよならではなく「また会いましょう」と答えた記憶がありますので、この記憶は間違いはないと確信しています。

氏が訪ねた時代の台湾は未だ戒厳令下で、読み進めていくと、南国のはずなのにどこかうすら寒さを感じてしまう自身の姿に気づかされます。わたくしは平和な日本で生まれ育ちましたが、内戦も戒厳令も経験せずに大人になることができたのは、ある意味とても幸せなことだったのかもしれません。

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ところで、氏が乗車した鉄道は、台湾の台北と高雄をつなぐ縦貫線はもちろん、阿里山森林鉄道だったり、花東線の狭狭軌急行列車だったり、時刻表もろくにない精糖鉄道だったりするわけですが、小さな盲腸鉄道も丁寧に乗っていることに氏ののりつぶし魂を見せつけられた気がしました。氏の没年は2003年ですので、2007年開業の台湾新幹線に乗る機会はありませんでしたが、もしあと5年生きていたら、台湾新幹線についてどのような紀行文を書いたのかが気になります。

台北で路線バスに乗るためにかならずしたこと

1996年、台北市に捷運とよばれる交通システムが登場しました。モノレールと地下鉄を組み合わせたようなものです。宮脇俊三氏が捷運に乗ったという記録はありませんが、1990年代半ばまでの台北の市内移動はとにかく大変で、淡水線の廃線により淡水や北投温泉に行くのは不便になっていたことと、タクシーに乗るとおそろしい渋滞に巻き込まれ、道を歩こうとすると間を縫ってびゅんびゅん走るバイクの存在は、とにかく恐怖と憂鬱でした。

当時は路線バスも網の目のように走っていたのですが、外国人がひとり台北市内でバスに乗ることは大仕事で、台北には日本の京都・大阪とは比較にならないほど多くのバス系統があり、ややバスの前面には縦長の楷書体で「〇〇高校行き」などと書かれているだけで、どこを経由して行くのかさっぱりわからないのです。そのため、停留所の情報が詳細に書かれた新書大の書籍が売られていました。

インターネットが普及していない時代、情報を集めるのはとにかく大変でしたが、間違えることによって生まれる偶然もあったりして、それはそれでとても面白かったという記憶があります。

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