一九三六年 屏東⑺ ー 龍涎香は阿片より高く売れる
裸の処女の肌に塗り込む
今日の屏東は篠突雨が降っていた。仕事らしい仕事もなく映画でも見ようと思ったが雨風が相当酷く断念した。台湾には「竹風蘭雨」と云う語があるが(※台湾北西部の新竹は風が強く、北東部の宜蘭は雨がよく降るという意味)、屏東や恒春も相当に風雨が強く台風の銀座であると称される。方便なく旅館に籠もり一日中書き物をしながら新聞を読んでいたが、屏東の話題は甘蔗糖業が殆どで、其の他市尹の動静や妻帯の日本人巡査と蕃女の醜聞、キ印が行方不明になった話が面白可笑しく書かれている位だった。夕方になると雨も止み今度は急に蒸し暑くなったのでブラブラ外出する。先日の例の妓楼の前を通ると玄関が滅茶苦茶に破壊されていた。風雨の所為かと思ったのだが、後で聞いた処、ロマンを怒らせた為にギタギタに壊されたのだと云い、遣手婆も酷い折檻を受け大怪我を負ったとの由。実にいい気味だがストームのような壊れ振りを見ておめこする気が失せてしまい、結局今日の外出は近所の小料理屋にて卵丼を食べた位であった。帰りに露店に寄りマンゴーと云う果物を買ったが、馥郁たる香りに甘美な味は正に百果の王と云うに相応しい。但しバナナと違って移出が禁止されているので実に勿体無い事であると思った。屏東には木瓜も多く、苗木を無価で配付していると云うがこちらは自分の口に合わなかったので買わなかった。旅館に戻り主人や旅客と夜伽話となった。客の一人が台湾百合の球根は子孫繁栄の強壮剤として効能あらたかであると云う。漢方薬の百合は動悸息切れに使う薬であると聞いた事があるから所変われば正に効能も変わるのであろうが、それを云うなら恒春鯨業の隠れた産物である龍涎香でも挙げるべきで、実際高雄では惚れ薬と称し阿片より高く売れるのである。龍涎香は内地よりも支那大陸で売れると云い、仲買人が大量に買いつけた龍涎香は支那大陸に渡り、今度は軍閥実業家郷紳の目前で裸の処女の肌に塗り込んで効能を説明し台湾の五倍十倍の値で売りつけるのだと云う。旅館の壁にはヤモリ共が居てキュキュと鳴きながら蚊をぺろりと食べていた。
博愛主義者
台湾滞在も残り少なくなったので、旅館で屏東土産は何が好いかを聞いた処、翡翠・珊瑚・蕃人の瑠璃玉細工が好いと云われた。尤も翡翠は軟玉が殆どであり、珊瑚は持ち帰るのが難しく、瑠璃玉は内地で価値を持たない。コーヒ豆はわざわざ買うべきものではないと云われた。夜、某所にてバナナクリームを食べながら宋君の噂話を聞いた。宋君は博愛主義者(※ポリアモリー。もしくは色情狂)であると云い、ロマンの一人だと云う。彼もまたロマンの一人であると聞き一遍で驚いたが、もう一遍では何やら腑に落ちるのだった。若い頃の宋君は和歌山でも相当な事情通として知られていたし、現在の宋君は屏東の官庁軍隊花柳界に知悉し無気味な処がある。台湾の盛り場と云う盛り場にはロマンと云うギャングが猖獗し警察権力を以てしても仲々殲滅出来ないのであるが(ロマンは老鰻と書き、なぜ此の字を充てるかと訊くと、煮ても焼いても喰えないから此の名が付いたのだと云う)、宋君の揺れのない自信は、恐らく此の屏東では何をしても安全だと云う確信があるからなのであろう。となると、屏東で活躍していると云うより単に傍若無人な立場にいるのかも知れぬ。もし彼が例の妓楼を無茶苦茶にしたと云うなら、もしかすると自分が原因を作ったのかも知れぬ。となると、気の毒な事をした者だと思う。ところで官憲に捕縛されたロマンは台東開導所に送られ、矯正の名の下で辺境開発の肉体労働に従事させられると云う網走監獄のように恐ろしい処であると云う。台北界隈のロマン共は台東と云う場所を聞くだけで正に死刑宣告を受けたかのように震え上がるのだが、自動車さえあれば屏東より一日で行ける距離だそうである。更に曰く、宋君は単なるロマンに非ざる、屏東では土皇帝(※田舎のボス。戦前の台湾では台湾総督を指す言葉でもある)に等しくあの男は何をやっても逮捕されないのだと。土地商業の基盤を持たぬ一介の本島人が此処までの権力を持つ事は俄に信じがたいものであるが、立身出世の方途は単に大臣博士に限らないものであるし、彼なら遣りかねない節もあるから、マア、巧くしてやったと云うべきであろう。
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