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一九九五年 台灣⑵ - クォーター・センチュリー

ぼくが初めて台湾に足を運ぶまで、台湾に対するイメージといえば、年長者から聞いていた一九七〇年代の台湾の話、つまり冒頭で述べたような売春旅行のたぐいであった。話は少し脱線うえ、かなり長い文章となってしまったけれども、一九九〇年代半ばの台湾を語るための前提として、ぼくが過去に聞いた話のあらましをここに書いておきたい。


啓程好日(いい日旅立ち)

一九七〇年代のアジア旅行といえば、大人の男が売春目的で行くところというイメージがあって、当時の行き先は台湾や韓国が中心で、八〇年代に入ると東南アジアにシフトしていく。フィリピンの大統領である(フェルディナンド・)マルコスさんは「フィリピンにいらっしゃい」としきりに言っていたが、フィリピン観光の難点はいかんせん日本語が通じにくいことであった。

当時、大手中堅の旅行代理店では、若い社員が「とっておき観光」と言いながら桃色ツアーを組んでいた時代で、客は客で煙草片手に「ここは若い別嬪の多い旅館か」などと質問していた。一事が万事こんな感じだから「台湾に行く」といったら、いかがわしいことをしに行くのだと思った日本人が多かったのだと思う。

当時、関西から台湾に行こうと思えば、伊丹空港発・松山空港(※台北市東部にある空港)着というルートだった。松山空港から台北市内まではとても近く、空港に降りた途端に果物の腐ったような匂いがしてまさに異国に来たような気分になったのだという(確かにこれはぼくもそう思ったことがある)。当時は円・ドルの為替が安定せず、レートが大きく変わるのはしょっちゅうで、クレジットカードも使えなかった。トラベラーズチェックは両替が面倒であったし、結局台湾では日本円のほうが使えたので、腹巻きのなかに何十万円もの日本円を持っていった人の話をよく聞いた。腹巻に入れていたはずのお金がなくなった話も聞いたが、もっとも、おそらく遊び過ぎてすってんてんになってしまったのだと思う。

当時、彼らがよく泊まっていた場所は、台北の国賓飯店(アンバサダー)か北投温泉、台北以外であれば宜蘭の礁渓温泉で、旅社には泊まらなかったと言っていた。
台北はあまり目をみはるものはなかったらしい。松下のことを「国際」と書いていたこと(※松下電器産業(当時)は「ナショナル」というブランド名を「国際」と漢字表記していた)、劍潭山上にある中国風のホテル・圓山大飯店の説明をガイドからくどいほど聞かされたという。このホテルは蒋介石夫人である宋美齢氏が経営していて、現在も台北のランドマークのひとつである。彼らが知っている台北は、林森路の歓楽街と淡水のゴルフ場、そして観光客向けのありきたりな場所がいくつか程度だった。林森路の盛り場はとても繁盛していて、当時のバーやキャバレーには「オネーチャン」とよばれるホステスが多数在籍し、舞台には楽器の生演奏が入っていたが、日本人客相手に台湾の歌を唄っても仕方がないから、日本直輸入の最新カラオケ機を入れて、南国なのになぜか「津軽海峡・冬景色」や「北国の春」が流れ、デュエットで唄うのが流行っていたのだという。そして、ときどき男声のオネーチャンもいて、ここで台湾にもおかまがいることを知ったという。ただ、彼女らは日本の化粧品は好きでも、ピンクレディーやテレサ・テンへの反応は薄かった。台湾でテレサ・テンの人気が出たのはずっとあとになってからで、当時は偽パスポート事件のせいで印象は良くなかった(※テレサ・テンはインドネシアのパスポートを使い日本に入国しようとして国外退去処分となったことがある)。

一旦台北を出ると、今度は南国のおおらかな田舎という風情で、男はパンツ一丁か、シャツを着てもお腹だけ出して外をうろうろしているのが多く、とにかく見苦しかった。女も熊や河馬みたいな風体が多く、セクシーさは皆無。到るところでビンロウを噛んで赤い痰を吐き捨てる姿にたじろいだり、ときに選挙カーみたいな車がターッと走ってくることがあって、車の上には姥桜がチラチラと前の部分を見せていたのに度肝を抜かれ、これが台湾の葬式と聞いて更にびっくりしたのだと言っていた。

shokei(礁渓)

彼らがよく足を運んだ礁渓温泉は、台湾北東部の宜蘭県にある温泉で、自強号に乗って行くとき駅員に音読みで「ショーケイ」と言っても普通に通じた時代である。途中、列車はトンネルを進み、海沿いを走り、そしてときおり小さな町で停車していて、まるで紀勢本線を走る汽車に乗っていくような雰囲気であった。礁渓は山の中にある小さな温泉街で、優雅ではないけれども、昔の日本と今の中華民国がほどよく入りまじって、内地とは明らかに異なる雰囲気を持っていたとのこと。温泉に行くと大抵「観光ホテル」と書かれているところに泊まっていた。一般の台湾人は立入禁止にはしていなかったけれども、料金が高いので台湾人は誰も行かないと言っていた。看板に変なカタカナやひらがなが書かれているところが台湾らしかったけれども、それ以外は日本の歓楽街と大差なく、宴会場では丁半賭博のような遊びまであった。ただ、この遊びはお金を賭けるものではなく、負けたほうが脱衣する野球拳のような遊びだったという。

あと、これは礁渓温泉に限らない話だが、台湾には「観光理髪庁」というのもあって、オネーチャンが裸で散髪してくれるというサービスがあった。一度だけやってもらったことがあって、ひげを剃ってもらうとき乳房を顔にあてられて龍宮城に行った気分になったそうだが、日本人離れした髪型に仕上がってしまい、ちょっと困ったことになったといっていた。

当時、中華民国政権のことは国府とよばれていた。いま考えてみると、国府もそうだが、中共・北鮮・韓国といった漢字二文字の言い方には、いささか相手を一段下に置くような、そして不気味なニュアンスが含まれていた印象がある。一九七〇年代の日本は対岸の中華人民共和国と仲良くするようになったので、台湾では日本文化の輸入が禁止されてしまった。結果、日本に気兼ねすることがなくなったせいか、コピーがいたるところであふれかえり、台湾イコール「パチもん(海賊版)」の国という印象がこびりついてしまう。私がはじめて台湾を訪ねた一九九五年頃はまだその影響が残っていて、たとえば日本では月曜日に発売される「週刊少年ジャンプ」は、その週の木曜日頃には北京語に翻訳され台北の店頭に並んでいたし、テレビゲームもほとんどが互換機であった。

春光乍洩(ブエノスアイレス)

それでも当時の台湾を知る年長者に聞き取りを行うと、当時のことをとても楽しそうに語ってくれる。若い頃の思い出というのもあるからだろうが、本当に楽しそうだった。あと、かつての台湾のゲイシーンについて語ってくれた人もいる。といっても、台北の新公園(現在の二二八和平公園)のトイレには夜になると同性愛者が集うとか、夜の街におかまバーをみかけたといった程度である。二十世紀末に封切られたLGBT映画「ブエノスアイレス」の最終シーンに当時の台北が映っていて、確かに当時の台北はあんな感じであった。

近年、過去の台湾を訪ねる旅が流行っている。ただし過去といっても日本統治時代探訪が中心で、一九七〇年代の台湾についてはほとんど顧みられていない。しかしあれからもう半世紀が過ぎている。一九九五年の台湾についてもそうで、気がつけば「なつかしい記憶」に至っていることに気づかされる。台湾に限らず、このころの記憶についてそろそろまとめておくべき時期に入っているのだなとぼくは思っている。

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