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一九九五年 台灣⑷ - クォーター・センチュリー

一九九五年の当時、ぼくが台湾で学んだことは、第二次世界大戦後の台湾の歴史そのものであった。

時代の怪獣

ぼくの台湾への理解は今なお断片的かつ不十分なものにすぎないが、日本統治時代から今に至る台湾の歴史はとても暗く、そして重苦しい一面を持っていることに改めて気づかされた。戦後の台湾で二二八事件や美麗島事件が起こったことなど全く知らなかったし、長い戒厳令の時代を単に「不気味」というひとことで片づけていた。これでは「台湾認識」などできない。

当時ぼくは九份を訪ねたことがある。映画「悲情城市」の舞台として脚光を浴びはじめた時期と重なっていたが、単に九份の風光を観に行ったわけではなく、じつは映画「悲情城市」のストーリーは、戦後すぐの台湾で国民党の圧迫によって市民が次々と殺されていくというものであった。
この映画を見てからは九份という地からすさまじい鬼気を感じ、ぼくの心の奥に重く黒い塊をまた一つ抱えこんでしまった。現在、九份は多くの観光客でにぎわっている。ぼくもその後何度か喧騒の九份に足を運んだことがあるけれども、そのたびにふと考え込んでしまうのだ。
(それは、修学旅行や研修旅行で沖縄や八重山の歴史を学ぶ若者が、温暖な気候とは対象的な重々しさにあれこれ考え込まされていくのと通じるものがあるのかもしれない。)

世界の孤児

しかし、当時の台湾はこのような重く暗い話ばかりではなかった。この時期の台湾は社会が一気に明るくなっていった印象がある。というのは、台北では駅前の新光三越が落成し、捷運(新交通システム)の建設も進んでいたし、日本文化が再び解禁され、町なかで日本の歌曲が多く聞かれるようになった。ちなみに当時台北で大流行していたのは、林佳儀が唄った中島みゆきのカバー曲だった。

そしてぼくにとってもっとも印象的だったことは、一九七〇年代に国際連合から追放され、世界の孤児として生きることとなった台湾が、新しい政治、経済そして社会へと脱皮するためにさまざまな模索を続けていたことであった。

台湾は世界の孤児となったことによって社会課題に対して非常に鋭敏なセンサーをはたらかせるようになり、民主主義のルールに則って着実に議論を進めていった。
その後、台湾各地に点在する多くの先住民族が自身のアイデンティティを表明し、二十一世紀にはアジアで初めて同性婚を合法化させ、新型コロナウイルスにも毅然と立ち向かっている。本当に立派だと思う

一方、日本の現代は惨憺たるありさまである。その差はどこから生まれていったのかを考えると、二十五年前の自分たちの行動があまりにもふがいなかったことが、次の世代への差となってあらわれてしまったのだと思っている。
経済が悪い、政治が悪い、社会が悪いといって責任を転嫁し、あるいはなにかに韜晦することは簡単だが、時代を良くする行動につなげていくことは本当に困難である
私たちが前の時代、たとえば昭和を語るとき、懐かしさとともにあまりにも人や社会のあたたかさを賛美することに戦慄を覚えることがある。ぼくは社会の一員としてこれまで何をしていたのかと。

ぼくが書いた日記を読み返していると、当時、まだ若かったぼくに課せられていたことは、自分はなにもので、そして自分はどこに向かっていくのか、そして青春という頌歌をたからかにうたいあげることであった。

そして日記の最後にはこのような漢詩が書かれていた。

黑夜給了我黑色的眼睛 我却用它尋找光明
(闇のように黒い夜は私に黒い瞳を与えた 私はその黒い瞳で光明を探す)

顧城 「一代人」より

今になって、ぼくはおそろしい事実に気づかされた。

ぼくの視線はあくまでも深く青くそして広い社会に向けたものではなく、単に汲々とした個人の幸福のみに帰していたことに改めて気づかされたのだった。

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