余人たちの対話

今日からロシア語で本を読み始めた。原書の題名は、Ходите в свете, пока есть свет これはトルストイの小品で、邦題は『光あるうち光の中を歩め』舞台は古代ローマ、世間的な立身出世していく青年とキリスト教の道に生きる青年の対話を通して、人としての善い生き方とはなにかを問う小説なのだが、本編に行く前に Беседа досужих людей (余人たちの対話)という挿話が前座として添えられている。どこまで行けるか分からないけど、その部分を精読してみようと思う。

 Собрались раз в богатом доме гости. И случилось так, что завязался серьезный разговор о жизни.

раз は「ある時」
いきなり動詞が来て、主語で終わる感じがロシア語っぽい。最後の гости が主題と考えると「ある時、豪奢な家に客人たちが集まった」のように日本語では「が」で受けるしかない。И случилось так, は「偶然にも~することとなった」そこに意図や狙いがまったくなく、流れでそうなっちゃった的なニュアンス。

「ある時、豪邸に客人が居合わせた。そして、図らずも人生についての真剣な会話になってしまった」

Говорили про отсутствующих и про присутствующих и не могли найти ни одного человека, довольного своей жизнью.

最初の и は про отсутствующих とпро присутствующих を結んでいるけど、次の и は単なる並列というよりも、前文の事態を受けての結果という感じがする。「話してみた結果、発見した」ということだと思うんだけど、じゃあなんでこれ不完了体なの?と突っ込まれると答えに窮する。Говорили と не могли найти が同時に行われている、とは考えにくいんだけどなあ。どちらとも動作性が弱いから、こういう訳になるのかも。

「そこにいない人や出席者について話をしていると、誰一人として自分の人生に満足していないことが分かった」

Мало того, что никто не мог жаловаться счастием, но не было ни одного человека, который бы считал, что он живет так, как должно жить христианину.

жаловаться は「不平を言う、嘆く」счастием は辞書で見つからなかったけど、おそらく счастьем だと思う。「幸せ」だけど「運命」という意味もあるのね。日本語でも「仕合わせ」とも言うし、巡り合わせみたいな感じなのかも。造格になってるから「運命によって誰も不満を言えない」つまり、「運命だからと諦めて誰も不満を口にできない」くらいか。

誰もがそれが運命だからと嘆くことができないばかりか、キリスト教徒たるべき生き方をしていると思っている人は一人もいないのだった。

Признавались все, что живут мирской жизнью в заботах только о себе и своих семейных, а не думает никто о ближнем и уж тем меньше о боге.

тем は助詞で「なおさら、よけい、まして」の意味

世俗にまみれた生活をして、自身や自分の家族のことのみにあくせくしていると全員が打ち明け、隣人やましてや神について考えている者は誰一人としていなかった。

Так говорили гости между собою, и все были согласны, обвиняя самих себя в безбожной, нехристианской жизни.

客人たちはお互いにそんなふうに話し合い、各々の恥ずべき非キリスト教徒的生き方を自分で非難しながらも、全員が同じ考えだった。


今日はとりあえずここまで。これから全文とはいかないまでも、気になった場面は切り抜いて、note の記事にしながら精読という形をとりたい。






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