ロシア語一日一善(274)

レフ・トルストイ編著  八島雅彦訳注  東洋書店から

Поступок, совершенный без всяких соображений о каких бы то ни было последствиях, в виду только исполнения воли бога, есть наилучший поступок, который может быть совершен человеком.

試訳
どんな結果になるかは全く考えず、神意の遂行のみを念頭に置いてなされた行為が、人間がなし得る最良の行為である。

全体の文の骨格は、поступок - есть наилучший поступок—— 「〜な行動が〜の最良の行動である」совершенный без всяких соображений о каких бы то ни было последствиях は最初の「行動」にかかる。疑問詞+бы то ни было で譲歩を表す。文字通りには、「仮に任意のもの(疑問詞+бы)があって、そうであるならば、(то)存在しない、何でもない(ни было)」であるが、理屈よりも成句的に覚えておくべきだろう。「どんな結果であっても全く考えないで為された(行動)」в виду только исполнения воли бога 「神の意志の遂行だけを念頭に置いて」これも最初の「行動」にかかると考えて良いが、есть の前になぜコンマがいるのかが説明できない。ただ単にここまでが主語であることを示すものか。в виду чего は「〜を見込んで」だが、文字通りには前置格なので、「〜の視界に置いて」ということになる。наилучший поступок, который может быть совершен человеком  「人間によって行われる最良の行動」

八島雅彦訳では「結果がどうなるかをまったく考えない、ただ神の意志の遂行だけを考慮した行為が、人によってなしうる最良の行為である」となっていてなるほどと思った。в виду только исполнения воли бога は Поступок в виду только исполнения воли бога という繋がりになっていて「神の意志だけを視界に入れた行動」という解釈をしていたのだが、正確には、Поступок, совершенный в виду только исполнения воли бога という繋がりになっていると見るべきではないか。つまり、без всяких соображений о каких бы то ни было последствиях と в виду только исполнения воли бога が並列の関係にある前置詞句であり、意味的には「AではなくB」の構造になっている。всяких соображений 「あらゆる想像」ではなく только исполнения воли 「神の意志のみ」というのも綺麗な対比になっている。そもそも в виду (чего) の用法を見ると、иметь в виду- のように動詞に接続しているので、поступок という名詞にかかるという説明には無理がある。このように捉え直すと疑問点だったコンマにも説明がつけられる。в виду の前のコンマは同種成分の間に打たれるもので「複合の並立接続詞の、後半部の前(宇多文雄『ロシア語文法便覧』419ページ)」という条件を満たすのではないか。ただ、без А в Б という構造が成句のように扱われることは通常ないので見抜きにくくなっているだけとも言える。есть の前の句点は簡単で、形動詞句が挿入されている形だから、その前後に打たれる句点の後半の方という解釈が成り立つ。今回このような誤読が起こった原因は、в виду (чего) という表現にあまり馴染みがなかったため、またその表現を使った例文の検討を怠ったためである。馴染みのない表現に出会ったらとにかく用例に当たって付け焼き刃でいいからその表現に触れた「経験値」を貯めるというのが誤読を防ぐための応急処置ではあるが、何よりもたくさんの原文に触れているかどうかにかかっているとも言える。身も蓋もないが。


人間は純粋さを高く評価する傾向があり、「AするためにBした(周りから称賛されるから人を助けた)」よりも「AするためにAした(人を助けたいから人を助けた)」の方が道徳的と見なされる。この場合の「人を助けた」ことの実際の影響が二つのケースで全く変わらないとしてもだ。テキストでは「神の意志」というのが絶対的な行為の基準となっているが、宗教的な意味合いを脱色すると「Aを得るという打算があるからBをする」という行為よりも「Aをすることそのものが目的だからAをする」という行為が良いということになる。カントがいうところの定言命法か。私たちの日々の行いは何らかの目的、つまり何かしらの結果を期待して行なっているものがほとんどだと思うが、その原因ー結果を超越したところに人として良い行いがあるのか、直感的には分からないが、「Aをすることが目的だからAをする」という行為の図式に(少なくとも私は)惹かれやすいことは真理かもしれない。

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