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愛猫との別れ

■ 2020年1月

 我が家の愛猫が二十歳になるまで4か月を切った頃、彼女の下半身は殆ど動かなくなっていた。
 彼女は一日の大半を寝て過ごしていたが、時折辛うじて動く前脚を使って後脚を引きずりながら歩き、水を飲みに行っていた。起きた時に人が近くに居ないと鳴きだすので、絶えず誰かが傍に居るようにし、夜になると母は近くのソファで体を丸めて毎日寝ずの番をしていた。

■ 2020年2月

 移動中に途中でへたり込むことが多くなり、トイレに行く前に粗相をしてしまうためにオムツを履かせることにした。自らの体が動かないこと、トイレにすら行けないことにショックを受けていたであろうことは見て取れた。段々と目が虚ろになり、焦点が合わなくなってきていた。絶えず目やにが出ているのでこまめに拭き取ることが日課になった。目の中に毛が入ってしまっているが、取ってあげることが出来ない。
 食事もほとんどしなくなってしまったので、父が色々な種類の流動食やおやつを買ってきた。最初のうちはよく食べてくれたので安心したが、それもすぐに食べなくなった。彼女の体は日に日に冷たくなってきていた。

■ 2020年2月22日

 一週間に一度、東京から昼過ぎに帰ってくる父が、その日は始発電車で帰ってきた。
 いつものように母が彼女を抱きかかえ、玄関前で父を迎えた。彼女は父を見ると「にゃあ」と鳴いたそうだ。恐らくまともに鳴いたのはこの時が最後だった。
 父が帰宅してからものの数分もしないうちに、母の腕の中で彼女は突如激しい痙攣を起こした。家族全員で彼女の名前を呼び、1分ほどで痙攣は収まった。瞳孔が開き意識が朦朧としていた。自分も、家族も、彼女がもう長くはないことを悟った。

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 痙攣を起こして以降、彼女の体はほぼ動かなくなり寝たきりの状態になった。瞼がうまく閉じられないのか半目の状態だったが目に反応は無く、ちゃんと寝られているのかもわからなかった。床ずれを防ぐために欠かさず体位交換を行なった。唯一動く前脚の先端を握っては、声をかけてコミュニケーションを取った。彼女がそれをどう思っていたのかは分からない。動物は痛いも苦しいも言わない。それだけが不安だった。

■ 2020年2月23日

 その日は朝から父と母が買い物に出かけた。その間はずっと彼女のそばに居たが、万が一のことが無いかと気が気ではなかった。幸いにも痙攣などを起こすことも無く、彼女は穏やかに過ごしていた。
 帰宅した両親は沢山の荷物を運び入れた。新しいオムツに、介護用品、スポイト、連日購入していたにも関わらずさらに買い足していた。例え予感があったとしても、彼女の命を諦めるような行動はしたくなかったのだろうと思う。
 自分は正直なところ、彼女に生きていて欲しいのか休んで欲しいのかよく分からなくなっていた。彼女の命が長らえても、回復することが無いことは分かっていた。自力で動けなくなった今、彼女は何を思うのか、苦しいのか辛いのかそれとも生きたいのか。数日前から食事に口もつけなくなり、スポイトで水すら飲もうとしなくなってしまった彼女は、まるで生きることを拒んでいるようにも見えた。それでも、自分たちは彼女に対して出来ることを全部した。

■ 2020年2月23日 22:30

 階下が騒がしくなり、急いで降りると彼女が下顎呼吸をしていた。生き物が死の間際にすると言われている「深呼吸」だ。手を握り優しく声をかけるが、もう前脚ですら反応は無かった。ただ静かに目を合わせ、彼女の呼吸の音を聞いた。最後を悟った母は彼女をそっと布団に寝かせた。呼吸の音と心臓の鼓動が小さくなり、やがて止まった。
 触れてみるとまだ心臓が動いているようにも感じられるし、聴診器をあててみるとまだ音が聴こえるようにも思えた。それくらい穏やかに緩やかに彼女は死を迎え、19年9か月6日の生に幕を閉じた。

■ 2020年2月24日

 別れの夜も、翌朝も、彼女は布団で横になっていた。傍らに座ると、生きている時となんら変わらない景色が広がる。ただ寝ているか死んでいるかの違いでしかない。ひたすらに実感が湧かなかった。肉体の死は確かに訪れたが、死の認識は未だに訪れなかった。概念における死とはひどく曖昧なものだということを知った。涙はこぼさないようにしていたが、心臓を糸で縛るような痛みが続いていた。
 彼女の身体に触れると四肢は硬直しており、ひどく冷たかった。それはまるで剥製のようであり、彼女の魂がここにはないことを如実に語っていた。
 自分はこの時に初めて、動物が他者の死を理解する瞬間が分かった。動かなくなっただけでは無く、冷たくなり、硬くなり、やがて腐臭を放ち、蝕まれ、骨になっていく。その過程のいずれかで、動物は相手がもうここには"居ない"ことを悟るのだ。死体は生者にとっての忌避の存在になるまで死を放ち続ける。人も動物も、その過程に最後まで耐えられるようには出来ていない。生きている者を留まらせず、生へと後押ししているようにも思えるその過程は、なんて厳しく残酷なのだろう。

 その日の昼に彼女の葬儀を執り行なった。
 花と手紙を添えて、可愛らしいピンクのタオルが掛けられた彼女は本当に綺麗だった。別れを告げ、火葬し、家族で骨を拾った。最後まで立派な姿だった。儀式を経て、けじめをつけて、少しずつ少しずつ死を受け入れる。その過程が自分たちには必要だった。
 ただでさえ全盛期に比べてやせ細っていた彼女は、さらに小さくなった姿で帰宅した。その骨もいずれは土に還し、彼女の痕跡は記録と思い出だけになる。もう呼びかけることは出来ないし、触れることも足音を聴くことも出来ない。死とは喪失なのだ。そんなどこにでもありふれているような言葉が、初めて自分の心に刻まれた。

 帰ってすぐに、自分は写真の整理を始めた。悲しい気持ちだけで彼女の思い出を埋めたくなかった。19年という歳月の中には楽しかった日々の方が多いのだ。それを蔑ろにしてはならない。元気な頃の姿を忘れてはならない。そんな思いからだった。
 色々なことを思い出した。仕事を辞めて実家に戻ったのも、彼女と最後を共に過ごしたかったからだ。家族皆で看取れるその瞬間まで頑張った彼女は本当によく出来た妹だと思う。

 両親にとっては娘を、自分にとっては妹を亡くしたが、妹が兄よりも先に死ぬこと自体はそう珍しいことでもない。たかだか数十年早いか遅いかだけの違いで、自分にもやがて死は訪れる。もしも老衰で死ぬことが出来るのなら、あの時彼女は何を思っていたのか、痛かったのか苦しかったのか、少しでも分かるのだろうか。そして今際の際に傍に家族が居ることは、どれだけの救いになるのだろうか。そんなことを考えながらその日は眠りについた。

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 ありがとう。
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