見出し画像

『マトリックス レザレクションズ』ラナ・ウォシャウスキーの再生

前作から18年振り、まさかの続編。
予告映像において、あまりにも”オフの日のキアヌ・リーヴス”然としたキアヌがなーんか困った顔をしてるのを見て、これはタダの続編じゃ無さそうだぞ・・・と直感しました。公開初日、映画館に飛び込んでみて納得。思った通り、通常のナラティブからは大きく外れた、世界一金のかかった超プライベート映画となっていました。
本作は賛否両論さまざまに飛び交ってますが、この映画が発する深い愛情に感動したので、ごちゃごちゃ書いていきたいと思います。
即座にネタバレします。

" 愛"に貫かれた映画

キアヌ・リーヴス演じるネオの物語は、前三部作で(無茶がありつつも)完結していたはずです。なぜ今になって寝た子を起こすようなマネを…という想いが、続編製作の報を聞いた映画ファンの頭にはよぎったと思います。
本作の一番のサプライズは、オリジネイターたるラナ・ウォシャウスキーも同じ想いを抱いて本作を作っている、という点です。しかし、たとえ語るべき物語が無かったとしても、彼女には寝た子を起こさなければならない事情がありました。
いきなりですが、詳細は下記にて。

本作のエンドロールには、ラナ・ウォシャウスキーが両親に宛てたメッセージが登場します。「パパとママへ、全ては愛から始まる」だったと記憶してますが(曖昧)、このメッセージがバシッと一言、この映画のテーマです。この映画は愛についての映画なんです。しかもそれは、ラブストーリー云々ということではなく、ラナ・ウォシャウスキー個人が自ら愛し、そして多くのファンから愛された『マトリックス』という"現象"を取り巻く、愛情についてです。
まず、とにもかくにもキアヌ・リーヴスとキャリー・アン・モスへの、ラナ・ウォシャウスキーの深い愛情です。前作から18年、キアヌとキャリーの顔には皺が刻まれ、気づけば髪や髭は白髪交じり。監督はそんな二人の姿を、会話のシーンを中心に、あえてアップの切り返し、顔を中心に撮っていきます。まるで今の二人の自然な姿を愛でるかのような撮り方です。先のインタビューにもある通り、ラナ・ウォシャウスキーにとってキアヌとキャリーはヒーローです。しかし、この2人がヒーロー足り得るのは、ウォシャウスキー姉妹が創作したネオとトリニティを演じているからです。創作者が自らの創作物を愛し、そして愛によって救われる。これはとても素晴らしいことです。そして仮に自作だったとしても、人の心を癒す芸術というのは、非常に強い存在意義を持っています。なかなか無い映画だと思います。
そしてキアヌ演じるトーマス・アンダーソンを取り囲む人々。彼らは皆、いかに自分がマトリックスから影響を受け、多かれ少なかれ今の人生が左右されていること語ります。企画会議で色々みんな言いますが、やっぱり根本はみんなマトリックスが好きなんです。ラナ・ウォシャウスキーが実際、色んな人から言われたんでしょうね。色々と手前勝手な分析や批評に晒されて、作り手としては尋常ならざるしんどさがありつつも、でもやっぱりみんな最終的には作品は好きでいてくれるから、続編製作の助けや支えにもなっている、といったような。これもやっぱり愛ですよ。周りの人の深ーい愛もあって、苦しめられつつも、でもやっぱり時には助けになってます、といったような。その辺りも好きですし、やっぱりマトリックスというブランド、ラナ・ウォシャウスキーというオリジネイターでないと作れない映画です。割とファンダムと製作規模のサイズ感のバランスが良かったんだと思います。
余談ですが、某超有名宇宙大戦シリーズはファンダムがデカすぎて、製作陣もファンダムとの距離感を図りかねている感じが、結局ズッコケた原因のように感じます。

箱庭療法としての映画製作

映画の本筋が動き出してまず笑ってしまうのは、すっかり中年になったトーマス・アンダーソン君が、まんまラナ・ウォシャウスキー本人というところです。
伝説的なゲームシリーズ『マトリックス』のオリジネーターで表面的には業界の超有名人、しかし実際はオリジナル新作がスランプ気味で、時折ゲームと現実の境界を見失う、精神的に致命的な失調を抱えた人物。アンダーソン君の設定としては、現在のラナ・ウォシャウスキーの立場が割と素直に描かれていきます。スタジオから『マトリックス』の新作を作れとお達しが出ますが、企画会議は停滞し、延々とループ状態。そして、アンダーソン君の自作『マトリックス』と現実の混同が始まってしまいます。それもそのはず、今さら続編で描くことなんて無いんです。
企画会議のくだりは度を過ぎてメタで劇場でもウケていましたが、何より、続編制作をムチャクチャ嫌がる展開が笑えます。しかし興味深いのは、続編製作に関する態度が現実と映画とで、反転していることです。映画でラナ・ウォシャウスキーの分身たるアンダーソン君は、続編製作に行き詰まり精神の均衡を崩しますが、しかし現実のラナは危うくなった精神の均衡を、本作を製作することによって取り戻しています。前半の展開は、安易な続編やフランチャイズ化への批判のように見えますが、「映画を作りたいけど、語るべきことは無い」という不思議な現状を素直に告白したものとも捉えられます。
ちょっと話が逸れますが、心根の部分では創作を渇望していつつも、しかし物理・精神的な負担を考えてしまい、結果的に嫌々ながらも取り組むという態度になってしまう、というのは古今東西良くあるクリエイター仕草ですね。誠に元気が出ます。

ボヤきながら、それでも創作する不思議

この映画、アンダーソン君が覚醒してネオとなって以降の物語が、そのまんまラナ・ウォシャウスキーが映画を作っていく過程とシンクロしているので笑えます。
自らの実績に憧れを抱いてくれる新しいクルー達と共に、老いながらも未だ枯れない懐かしいクルーの支援を得ながら、昔みたいな「人か機械か」みたいな頑なな態度はもう止めて、愛と信念の力で、もう一回『マトリックス』を自分のコントロール下に置いてみよう、みたいな話です。そう考えると、本作はまるでラナ・ウォシャウスキーの箱庭療法です。
前半がユーモラスなメタ展開で笑わせつつも、アンダーソン君の拭えない離人感や自殺を試みるまでの混乱が、どこか実感に満ち、真に迫ったものとして感じられるのは、本作が治療の過程そのものだからでしょう。なので後半、劇中の状況が難儀になればなるほど、映画自体が楽しそうに活き活きとしてきます。通常、作劇的には二幕の終わりに主人公はどん底に突き落とされ、映画のトーンは一瞬ダークに染まるべきですが、本作は尻上がりに多幸感が増していくので、そういう作劇のお決まりごととは無縁です。
物語のクライマックスとなるトリニティの奪還も、アクションシーンではなく、トリニティと語らい、自らに選択させることによって決着を付けます。このシーンはもう完全に、キャリー・アン・モスへの出演オファーそのまんまで、オファーを受けてくれるかどうか・・・という揺らぎが本作最大のサスペンスとなっています。相当変わった作劇ではあるものの、ラナ・ウォシャウスキーの本心が詰まったシーンですから、異様に感情に訴えかけてくるものがあります。泣けました。
ちなみに、トリニティをマトリックス内に繋ぎ止めようとする夫「チャド」役で、『ジョン・ウィック』シリーズの監督であるチャド・スタエルスキが出演していますが、この辺りも「キアヌはジョン・ウィックがお気に入りだし、そっちで忙しそうだけど、マトリックスまたやってくれるかな・・・?」みたいな配役として解釈すると、さらに楽しさ二倍ですね。

キアヌとジョン・ウィックとネオはもはや同一人物

トリニティが覚醒すると、そこからラストまではアクションシーンが続きますが、すでに物語的な決着は付いているので、いわばキャリー・アン・モスが出演を快諾してくれた祝いのお祭りみたいなもんです。「キアヌとキャリーがそろったから、全力でマトリックスやりますよ~~~」みたいなお祭りです。
そしてアクションを終え、現実世界で目覚めたネオとトリニティは、お互いに見つめ合い、体を抱き寄せます。ここが一番泣けました。二人はもう五十代。顔には皺が刻まれ、坊主に丸めた髪は白髪交じり。そんなありのままの二人、つまりキアヌとキャリーが18年のブランクを経て、再会を喜び合っている姿が物語の最後に据えられています。役柄として二人の間に宿る愛情もそうですが、やはりカメラの奥で抱き合う二人を見ていたであろうラナ・ウォシャウスキーの、二人への深い愛情を感じずにはいられない感動的なシーンです。
ラスト、黒幕たる精神科医のアナリストに「世界を作り変える」と宣言をした後、二人は例のスーパーマンスタイルで空を飛んでいきます。劇中では、空を飛ぶことがスーパーパワーの象徴として表現されており、力を失ったネオはなかなか飛ぶことが出来ませんでした。それがラストになって、久々のちょいダサCG感も込みでのビュンビュン飛行。これは、ラナ・ウォシャウスキーが自身のコントロールを取り戻した、という高らかな宣言以外の何物でも無いでしょう。トーンとしては多幸感と万能感に満ちていて、画面的にも一作目(飛び去るネオ)と三作目(美しい朝焼け)のマッシュアップになっており、思わずニコニコしてしまうようなラストでした。

「今見るとダッセぇぜ!」も込みでグッときます。


その他、細かく好きな点

著しい押井守化

ここまで書いた通り、ラナ・ウォシャウスキーが自分のことを描いた映画です。登場人物もラナ・ウォシャウスキー本人か、もしくは周囲を取り巻く人や状況の具現化なので、ラナ・ウォシャウスキーの金太郎飴状態です。自作の中に自分しか登場させない監督としては押井守が有名ですが、押井守はウォシャウスキー姉妹が尊敬して止まないクリエイターなので、「押井守みたいでクールでしょ?」ってラナ・ウォシャウスキーは思ってたりして。それくらい図太く作ってくれてたら嬉しいなぁ。

引用元が"マトリックス"

前三部作はサイバーパンクSFとカンフー映画と聖書とヴォルター・ベンヤミンを闇鍋状態で煮込んだ映画でしたから、とにかく引用のオンパレード。その辺りも"デジャヴュ"と引っ掛けて、シリーズのトレードマーク状態でしたが、本作でもそれは継続。しかし本作の引用元は全て、まさかの『マトリックス』フランチャイズ。フッテージの利用はもちろんのこと、セリフや展開、小ネタに演出まで、元ネタが全部旧作。新要素はゼロだったんじゃないか?そこを上手くギャグにしたり、ちょっと捻ってサプライズにしてみたり、変な作劇でした。

フランチャイズの愛憎

引用元が"マトリックス"フランチャイズなら、登場人物もフランチャイズの周辺の人々を抽象化したような感じです。新しいクルーは皆「ネオさんの功績すげぇっすよね!」みたいな観客の象徴として居て、「トリニティさんに憧れてこの仕事に就いたんす!」みたいな分かりやすい発言もあって笑えます。自分を支配してマトリックス(=箱庭)を歪めようとする精神科医。カネに煩いし筋書きにも口出してくるけど、最終的には力を貸してくれちゃう天敵プロデューサー。旧作の思想(人間対機械)を象徴するモーフィアスとザイオン。今作での発想の転換(人間と機械の共存)を示すアイオー。主演俳優・女優のキアヌとキャリー。ちなみに、前半で新クルー達がネオを発見するきっかけとなる"モーダル"って、たぶんファンダムのことだと思ってて、18年経ってもちゃーんとフランチャイズが継続して、根強いファンがファンダムを形成しているからこそ続編が作れましたよ、感謝感謝感謝、みたいな感じ。

キアヌのキリスト化

旧作は救世主たるネオ(=キリスト)が死んで、そんで生き返ったから奇跡をバンバン起こせるようになって、最終的には人類の身代わりとしてデウス・エクス・マキナ(=神)に我が身を捧げることにより、人間対機械の戦争を終結させる(=神の怒りを鎮める)というモロ聖書な筋書きです。本作ではネオというか、キアヌ・リーヴスのキリスト化が著しくもはや全く隠す気がないのが面白いです。

髭面長髪の救世主スタイルで奇跡を起こしまくるキアヌ。
キアヌとキリスト似すぎ問題は本国でも有名で、そこら辺も踏まえたギャグとして面白くなっています。

セクシュアリティのクールさ

旧作から継続して、本作もセクシュアリティの感覚がクールです。旧作で一番好きなシーンは『マトリックス リローデッド』のザイオンでのダンスシーンで、同性カップルが多いことを描写しつつ男女問わず肉体をセクシーに撮っていて、肉体と生の一致を明瞭に描くクールなシーンでした。その感覚は引き継がれており、とにかく男性キャラ(特にジョナサン・グロフ!!)のセクシーさ、女性キャラ(特にジェシカ・ヘンウィックが良い)のクールさが非常に良かったです。衣装もヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世がとにかくやべぇ服を着こなしまくってて、その辺りも凄く楽しい映画でした。新スミス役のジョナサン・グロフとアナリスト役のニール・パトリック・ハリスはオープンリーゲイで、その二人がマトリックスの代表的なプログラムを演じているのは印象的です。しかしニール・パトリック・ハリスは嫌味なインテリがハマるなぁ。

略奪恋愛劇解釈

トリニティ奪還作戦はキャリー・アン・モスへの出演オファーとイコールと書きましたが、思いっきり「中年になってしまったが、忘れられぬ初恋よもう一度」的な略奪恋愛劇に見えます。トリニティには明確に現夫がいますが、ネオにはスミスがいます。ネオに横恋慕するスミスが「トリニティは諦めなさい」と邪魔しに来ますが、ネオが本気であることをスミスは最終的に初恋の成就に手を貸します。ジョナサン・グロフということもあり、解釈の幅が広がります。

キャットリックス

エンドロール後、企画会議が迷走し「猫の動画はバズる!猫が全て!次はキャットリックスだ!」とギャグが炸裂するシーンがありますが、さすがラナ・ウォシャウスキー、ネットミームに見識が深い。キャットリックス、もうあります。本人が知ってるかは別として。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?