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瞑想日記④【《私》から《本当の私》へ】

このnoteに興味を持っていただきありがとうございます。

今回は、「《私》という感覚は、絶対ではなく機能!?」という話をしてみたいと思います。

ただ、自分の事は自分自身で発見していくのが大切だと思っているので、これは一個人の観察記録だと思っていただけると嬉しいですm(__)m




観察主体である私

「《私》という感覚」を感じていますか?

これを感覚と呼ぶのは少し語弊があるかもしれませんが・・・、

思考や、感情や、五感など、それらの働きが生まれるには、初めに《私》という世界から始まることが絶対条件になっています。


これは、真我探究で有名なラマナ・マハルシの示唆でもあります。

つまり、「一人称が始まることにより、他の想念が生まれる」と。


思考や、感情、五感など、想念を観察していくと、《想念を観察している私》という観察主体がいることに気づいてきます。

それは、思考や感情や五感とは、違った感じ方(気づき方)です。

例えるなら、
空気に触れようとしても感触はないですが、確かにそこに空気があることには気づける、
というように、
観察主体である私は、はっきりとした感覚はないが、そこに観察主体である私がいることに気づける、という感じです。


思考や感情や五感の方が刺激が強いので、そちらに意識は引っ張られ続けますが、
瞑想により、それらの刺激を観察し、仕組みを洞察できると、
刺激との距離がうまれ、観察主体である私に気づくことが生まれてきます。



観察主体である私が生まれた場所

しかし、この観察主体である私に気づき続けるていると、
「この観察主体である私が生まれてきているのは一体どこからなのか?」、という新たな疑問と探究が始まってきます。


その探究を続けていくと、《観察主体である私を生みだしている場所に還ること》にこそ、本当の私自身が存在しているという気づきが生まれてきます。
(あくまで、私自身の個人的な経験なので、真実がそうとかの話ではないですm(__)m)


これは、映画で例えるなら、
あなたが映画の本編のキャストだとして、本編の世界の中で瞑想をしてみます。

すると、この本編の世界は、撮影シーンというスタジオから生まれていることに気づき、
本当の私自身は撮影シーンのスタジオという、
本編とは次元が違うが、本編が確かにそこから生まれてきている場所に存在していることに気づくという感じです。



《私》という謎


私自身の探究は、まだまだ途中段階ではありますが、この気づきから観察してみると、《私》に対しての新たな発見があります。


それは、「《私》とは機能に過ぎない」という理解です。

個人として生きていく上で《私》という絶対条件は、ものすごいパワーを持っています。

そのためなら、他人の足をひっぱりったり、独裁的な考えも当然になったりします。

これは、それが人格的に劣っているという話ではなく、
狩猟時代から変わらない脳に組み込まれた命を守る共通のシステムで、
それが、命に全くかかわらない出来事なのに、「これは命が危ない!」と誤作動して反射している、という結果のものです。


自分を振り返ってみても、《私》という感覚が、そもそも絶対の真実かのように存在していますが、
よくよく観察してみると、お腹が減ったり、眠くなったりと同じく、
脳に組み込まれた、命を守るための機能でしかないように見えてきます。


この《私》という感覚が機能であるということは、「《私》という感覚」には到底受け入れられないかもしれません。



真実は天動説ではなく地動説であっても、
地球に住む人間からしたら、太陽が昇り、沈んでいくという、天が動いている感覚は変わらないので、到底受け入れられないということに似ているかもしれません。


これは、感覚はものすごい刺激を持っていますが、真実は感覚では捉え切れない所に在るという示唆でもあるように思います。
(感覚を否定しているのではなく、感覚の外に真実があるかもしれないということですm(__)m)


地球が太陽系の中心に位置していないことを受け入れることで、本当の太陽系が見えてきたのと同じく、
《私》が機能だとしたら、その機能としての《私》ではないところに《本当の私》がいるかも、という今まで見えなかった《私》を探ることができるようになってきます。




《本当の私》に還っていくという幸福感

今までの人生の全てが、《私》が主体的に選んだのではなく、《私》という機能が選んでいたと認識してみてください。

話だけを聞いても、「その認識で何が変わるの?」と思われるかもしれませんし、「自分の全てを否定しているよう」と感じるかもしれません。


しかし、それを判断せずに、あくまで客観的に、「機能かもしれないな」と思って、自分自身の意識でそのことに触れると、他とは違う幸福感がやってくると思います。

それは、社会で学ぶ幸福感とは違うもので、
その幸福感は、今まで《私》だと思っていたものから《本当の私》に還っていくという、誰からも習っていない自然の幸福感です。

これは、一個人の体験なので、誰しもが全く同じ体験ではないと思いますが、《私》が《本当の私》に還っていくことには、共通した幸福感があると思っていますし、本質的にはそこに全ての人が向かっているとも実感しています。


何度も言いますが、《私》は機能という話は、
決して《私》を否定しているわけではなく、
機能ではない《本当の私》を発見する新たな手掛かりとなり、

また、世界を見渡した時に、
私も含め、全ての人が《私》という機能に動かされている現実を客観的に観ることにもつながっていくと感じています。



私自身は、何かの答えよりも、一人一人が世界を発見していくことに、瞑想のベクトルを感じているので、《私》を機能として観察してみることで、新しい世界や《本当の私》を発見するヒントになれば嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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