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what is your favorite word?

文文ハローYouTube
どうも、あなたの勇者ぜろ子でございます。

去年になるけど「自分の言葉見つけよ」というツイートがずっと心に残っている。
Twitterは文字数の限界があり、そして「つぶやき」という性質のもとにあるので、なにか伝えたいことを限られた僅かな文字数に収めるとなると、どうしても断定的になってしまう場合が多いと思う。

上のツイートを見ても、死にたい人全般が、自分の使用する言葉が間違っている『だけ』に由来するものではないだろうし、それを解決するのが文学の力『だけ』ということではないだろう(これを呟いた方もおそらくそう思っていると思う)。

なんだか初っ端から否定的なこと言っているな?と思われるかもしれないが、とはいえ、僕はこのツイートに概ね賛同している。
というのは、僕も似たようなことを考えることがあったから。

「自分の言葉見つけよ」

僕は、曲がりなりにも文学という世界に片足(しかも足首だけ)を突っ込み、浅瀬でキャッキャッしている身として、言葉というものが持つ力を足りない頭で時たま考えたりする。

人間が人間として他のあらゆる生物と差異化される要素のひとつは言語の使用である。
僕たちは言葉によって感動し、言葉のよって傷つき、言葉によって特権化され、言葉によって差別され、言葉によって生を得て、言葉によって殺されもする。言葉を持たない(詞を持たない)音楽や絵画を見て感動しても、その感動のなんたるかは、言葉によってのみ説明される。この人が好きだ、この人が嫌いだ、という感情も、なぜそう思うのか突き詰めれば言葉で説明するほかない。言葉があるから人は感情を持つといってもいいかもしれない。人間が成長によって言葉の世界に参加する以上、これは僕たちにとって避けることのできないある種の宿命と言えるかもしれな。

「死にたい人は、つまり、自分がいま使っている言葉が間違っている」とは、どういうことなのか。僕は、死ぬとは、言語の世界の外へ行くことだと思っている。「死にたい」、予期せぬ事態、不慮の事故などによってではなく自発的な意志を持つこの言葉は、言い換えれば、自発的に言語が織りなす世界から脱出したという願望ではないかと。
人が傷つき、そこから逃げ出したいと思うその世界は、他者の(1人、あるいは複数からなる)言語の世界なのではないか。
世の中の常識、こうであるべきという規範、「普通」とはこういうものだという基準は、僕のことなどまるで気にしていない、あるいは実のところ何も根拠のない他者の言葉であるのでないか、とそんな気がする。そんな他者の言葉と僕というアイデンティティに差異がなければ、そこに自分という存在の意義を見出し、慰めになるのかもしれない。それもいいと思う。
しかし、そこからどこか逸脱していると感じる場合、それは間違ったことではなく、その人はその人独自の言葉の世界を持っているのだと言えないだろうか。その人をその人たらしめる、その人だけの言葉。たとえ、現実世界の、あなた以外の殆どの人が共有している言葉の世界にいたとしても。それは無下にされるべきはない。

ここまで長くなった。現実世界の言葉の使われ方が、あなたにとって辛いものである場合、文学の世界が代わりに存在すると思う。文学で描かれるフィクションの世界。フィクションとは一般に現実の世界と比較して、その対称にあるもの、虚構として解釈される。しかし、この虚構も結局言葉で表現されている言葉の世界だから、究極的に現実の世界と比べて価値のない世界などではない。しかも、この虚構の世界は一様ではなく、作品によって、あるいは作者によって、多種多様に表現されるものである。ひょっといたらその多様な言葉の世界の中に、僕たちがホッとする、居心地の良い世界があるかもしれない。でも、死んでしまったら、僕が思うに、言葉の世界から出てしまえば、残念ながら安らぎを与えうるこの虚構の言葉の世界からも引き剥がされてしまう。

僕はこれこそ、このツイートの意味する「自分の言葉見つけよ」だと思っている。僕たちをむやみに定義し、差別し、カテゴリー化する、その現実の言葉の世界に嫌気がさしたら、文学という言葉の世界がきっと、僕たちを待ってくれていると思う。
言葉の世界は一様ではないので、きっと暖かく迎えてくれる場所があるはず。
一緒に文学を読んでみませんか。

良い夜を

serotonin / girl in red


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